saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「究極の錬金術 2」by OSHO,


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Pp.294ー310

第11章「二つの道ー究極の現実」

 

最初の質問 (01)

「OSHO、『ソーアワム −−− 我は “それ” なり』あるいは『アハム・ブラフマースミ −−− 我はブラフマンなり』あるいは、 “アナル・ハック” という これら全ての声明は、知の道を行く者(ジニヤーニ)の道のように思えます。

昨夜の経文では『我は “それ” なり −−− それが神への敬礼だ』と言います。

 二番目の部分は、献身の道を行く者(バクタ)の道のように思えます。

それに反して、最初の部分は 知の道を行く者(ジニヤーニ)の道のように思えます。

それは滅多にない組み合わせです。

どうして 知の道と 献身の道が 一緒になっているのか、その理由を説明してくださいますか ?

それに関連して、知の道と 献身の道の違いを説明してください。

 見者(リシ)カビールシャンカラのような 知の道を行く者と、チャイタニアや ミーラのような献身の道の違いは、どういうものなのですか ?

 偉大な バクタたちは、彼ら自身を神から切り離す −−− ミーラが 主、クリシュナから自分を切り離したように、そうすることを好むのは、なぜですか ?

 献身の道を行く者は、知の道を究めることは できるでしょうか ?

 また、知の道を行く者が、献身の道を究めることは できるでしょうか ? 」

 

 

 究極は ひとつだ −−− が、それは、さまざまな角度から 見ることが できる。

それは、色々な点から 見ることができる。

 

それは ひとつでは あるが、表現されると 多種多様な 形を 取れる。

それは ひとつだ。が、人が究極なるものに辿り着こうとすると、 その道は異なる。

 

ある特定の道についてのことは 何であれ、リアリティーの 一つの側面だ。

それはリアリティーの 全貌ではない。

その全体を 体験することは 可能だが、全体を 表現することは できない。

表現というのは 常に 部分的だ。

 

あなたは 全体を はっきり認知し、感じることはできる。

だが、それを表現した 瞬間、単なる 見方に 過ぎなくなる。

決して 全体ではない。

 

究極なるものに向かう アプローチに、二つの根本的な区分がある −−− 一つは 知の道であり、もう一つが 愛の道だ。

人間のマインドは この二つに分けられる。

 

それらは究極の リアリティーの区分ではなく、人間の マインドの 区分だ。

マインドは、知る者 として 真理を知ることもできれば、 愛する人 として 真理を知ることもできる。

 

だが それは究極のリアリティーによるのではなく、あなたに よる。

 

たとえば あなたが、愛する者の 目を通して、究極のリアリティーを 見るとする。

あなたの体験は、知る者の 目を通して 究極のリアリティーを見るのとでは、同じではあるが 表現が 違う。

 

愛する者の目を通して見たら、あなたの表現は、知る者の表現とは 全く異なるものになる。

なぜ、この違いが 生まれるのか ? 

なぜ、全く違うことになるのか ? 

 

愛には 愛独自の言葉が あり、

知には 知独自の 言葉があるからだ。

愛には、愛独自の言葉がある ! 

それらの言葉は 正反対だ。

 

 

(01)終わり(02)へ 続く