saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第16章「二番目の質問」(06)


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二番目の質問 (06)

( 明け渡しとは、エゴを 捨てることだ。

そこには、数えるということも方法もない。

あなたは ただエゴを 捨てる )

 

明け渡し とは、それ自体が技法だ。

明け渡しの道においては、明け渡すことが 道であり 明け渡すことが 技法だ。

 

意志の道においては 意志が 道であり 

それに働きかける 多くの技法がある。

が、 明け渡す ということは、ある意味で わかりやすい。

エゴを 捨てればいいのだから。

エゴを 捨てた瞬間 −−− エゴだけが捨てることができる −−− すると突然 あなたは気づく。

自己の 内なる中心に 気づく。

あなたは、まったく異なる道をたどって 

同じ地点に たどり着く。

 

理解されるべき もう一つのことがある。

それが 問われている。

意識的になっていく道を 進むべきか、あるいは、何かに 自己を没入させていく道を 進むべきか ということだ。

 

私が明け渡しのことを 話す時は いつでも 

私は 何かに自己を没入させることについて話す。

 

ミーラが 踊っていた。

彼女は 自分が踊っていることに 気づいていない −−− 彼女が 踊りに なってしまった。

そこには 隙間がない −−− 

彼女は完全に 自分のエゴを 明け渡していた。

そこには 踊っている ということがある −−− 

彼女は それ に 気づいていない。

彼女は 完全に、踊りの中に 没入している。

 

あなたが何かに 全面的に没頭していれば、明け渡しの状態 −−− 完全に 吸収されている状態にある ということだ。

が、 エゴだけが 吸収される −−− エゴだけが ! 

そしてエゴだけが 吸収されているとき 

自己は その まったくの純粋性の 中にある。

だが、それは関心事ではない。

明け渡しの道においては 問題ではない ! 

 

ミーラは気づきに、意識に関心がない −−−ノーだ。

彼女は 聖なる踊り、あるいは 聖なる歌のなかに 完全に意識を失うこと −−− 

その中に、自己を全面的に失うこと に 関心がある。

自分を 完全に 失うこと −−− 

その中で、失えないものは 存在する。

もちろん、それは彼女の 関心事ではない。

 

意志の道においては、エゴは問題ではない −−− 自己が 問題だ。

明け渡しの道においては、自己は 問題ではない。

 

その強調点の 違いを、焦点を当てるところの 違いを 覚えておきなさい。

その違いのために、献身者と ヨギの間、バクタと ヨギの間に 余りにも多くの論議、余りにも多くの論争が ある。

 

ヨギは 意志の道の途上に あり 

バクタは 明け渡しの道の 途上にある。

 

 

(06)終わり(07)へ 続く