二番目の質問 (06)
( 明け渡しとは、エゴを 捨てることだ。
そこには、数えるということも方法もない。
あなたは ただエゴを 捨てる )
明け渡し とは、それ自体が技法だ。
明け渡しの道においては、明け渡すことが 道であり 明け渡すことが 技法だ。
意志の道においては 意志が 道であり
それに働きかける 多くの技法がある。
が、 明け渡す ということは、ある意味で わかりやすい。
エゴを 捨てればいいのだから。
エゴを 捨てた瞬間 −−− エゴだけが捨てることができる −−− すると突然 あなたは気づく。
自己の 内なる中心に 気づく。
あなたは、まったく異なる道をたどって
同じ地点に たどり着く。
理解されるべき もう一つのことがある。
それが 問われている。
意識的になっていく道を 進むべきか、あるいは、何かに 自己を没入させていく道を 進むべきか ということだ。
私が明け渡しのことを 話す時は いつでも
私は 何かに自己を没入させることについて話す。
ミーラが 踊っていた。
彼女は 自分が踊っていることに 気づいていない −−− 彼女が 踊りに なってしまった。
そこには 隙間がない −−−
彼女は完全に 自分のエゴを 明け渡していた。
そこには 踊っている ということがある −−−
彼女は それ に 気づいていない。
彼女は 完全に、踊りの中に 没入している。
あなたが何かに 全面的に没頭していれば、明け渡しの状態 −−− 完全に 吸収されている状態にある ということだ。
が、 エゴだけが 吸収される −−− エゴだけが !
そしてエゴだけが 吸収されているとき
自己は その まったくの純粋性の 中にある。
だが、それは関心事ではない。
明け渡しの道においては 問題ではない !
ミーラは気づきに、意識に関心がない −−−ノーだ。
彼女は 聖なる踊り、あるいは 聖なる歌のなかに 完全に意識を失うこと −−−
その中に、自己を全面的に失うこと に 関心がある。
自分を 完全に 失うこと −−−
その中で、失えないものは 存在する。
もちろん、それは彼女の 関心事ではない。
意志の道においては、エゴは問題ではない −−− 自己が 問題だ。
明け渡しの道においては、自己は 問題ではない。
その強調点の 違いを、焦点を当てるところの 違いを 覚えておきなさい。
その違いのために、献身者と ヨギの間、バクタと ヨギの間に 余りにも多くの論議、余りにも多くの論争が ある。
ヨギは 意志の道の途上に あり
バクタは 明け渡しの道の 途上にある。
(06)終わり(07)へ 続く