saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第16章「二番目の質問」(04)


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二番目の質問 (04)

( それと正反対なのが 明け渡しの方法だ。

明け渡しは、あなたの自己ではなく エゴに関わっている )

 

明け渡しにおいては、自分自身を 手放すことだ。

無論、あなたは 自己を手放すことはできない。

それは 不可能だ。

あなたが 与えるものは 何であれ、当然 あなたのエゴだ。

あなたは エゴだけを 手放すことができる −−− 

エゴは、あなたにとって ただの付属物だ からだ。

 

それは あなたの 実存の一部でさえない。

ただ 付け加えられた ものだ。

それは 一種の所有物だ。

もちろん、所有者もまた それに所有される。

が、それは 所有物だ。

それは 一種の 持ちものだ −−− それは あなた ではない。

明け渡しの道では こう言う

「あなたのエゴを 師に、神に、覚者に 明け渡しなさい」と。

 

誰かが ブッダの所にやって来るとき、

ブッダム   シャラナム   ガッチャーミー、私は あなたに帰依します。

私は 覚者に己を明け渡します」と 言う。

その人は いったい何をしているのだろう ? 

自己を 明け渡すことはできない。

だから、自己は そのままだ。

 

あなたが 明け渡せるものは、何であれ あなたのエゴだ。

それが あなたの所有物だ。 エゴなら 明け渡せる。

そして、あなたが誰かに 己のエゴを 明け渡すことができれば −−− その人が Xであろうと、Yであろうと、Zであろうと、誰であろうと 違いはない。

明け渡される人間が 誰であろうが ある意味では関係ない。

大切なことは 明け渡す ということだ。

それなら、あなたは天上の神に 明け渡せる。

神が いようがいまいが、関係ない。

もし、天上の神という 概念が エゴを明け渡すのに役立つのなら、それは いい工夫というものだ。

 

実際、ヨーガ・シャストラスは「神とは明け渡すためのからくりだ −−− ただの からくりにすぎない !」と 言っている。

神が いようがいまいが、構うことはない。

神とは ただのからくりにすぎない。

虚空に明け渡すことは、あなた方には 難しいからだ。

だから神を存在させれば、あなたは 明け渡すことができる。

インチキな からくりでさえ 役立つ。

たとえば道で ロープを見たとする。

あなたはそれを 蛇だと 思ったとする。

それは 蛇のような動作を したとする。

それを見て、あなたは恐くなり 震えて逃げ出す。

そして 汗をかき始める、その汗は 本物だ。

そこに蛇は いなかった −−− 

ただの ロープを蛇と 勘違いしただけだ。

 

ヨーガ・スートラでは 

神とは明け渡しのための一つの工夫にすぎない と言う。

神が いようがいまいが、たいした問題ではない。

そんなことに 構う必要はない。

 

もし神が いるとすれば 

あなたは 明け渡すことで 神を知るだろう。

だから 明け渡す 前に、神のことを 考える必要はない。

 

もし 神が いるとすれば 

明け渡すことで あなたは それを知る。

もし 神が いないとすれば 

それもまた 明け渡すことで 知るだろう。

だから 論議することもなければ、喧嘩することもなければ、証拠が必要という わけでもない。

そして、ヨーガで そう言っていることは、とても 美しい。

 

それらは、神は 一つの工夫であり、あなたが自己を明け渡すことができるように、またあなたの明け渡しの 助けになるようにと 考えられた 一つの仮定だと言う。

 

 

(04)終わり(05)へ 続く