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「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第7章 表層を忘れる

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第7章   表層を忘れる

◎⋯⋯98  ハートの中の平安を感じる

 

  生の 外側は台風だ。

絶えざる葛藤、騒ぎ、闘い⋯⋯。

でもそれは ただ表面上のことだ。

ちょうど海の表面が、波や やかましい潮騒や、絶えざる怒涛に満ちているようなものだ。

でも それが生のすべてではない。

奥深くには 中心もまた存在している。

そこは、音もなく 静かで、葛藤も闘争もない。

その中心では、生は 無音の流れであり、安らいでいる。

それは、葛藤もなく 流れる川であり、闘いも、暴力もない。

その内的中心こそが 探求すべきものだ。

表面 つまり外側に同化してしまったら、苦悩がつきものだ。

これこそ 人々みなに 起こっていることだ。

私たちが同化しているのは表面であり、そこには葛藤が絶えない。

 

  表面には動揺がつきものだ。

そうであって 当然だ。

しかし、もし中心に 根づいたら、表面上の動揺は 美しいものとなる。

表面には表面の 美が現れる。

もし 内側が 静かになったら、外側の騒音は 音楽的なものとなる。

もはや 何も不都合はなくなる。

騒音もまた 遊びとなる。

ところが 内側の核、静かな中心を知らなければ⋯⋯もし表面に同化しきっていたら、あなたは きっと気違いになる。

実際、誰もが 気違い同然だ。

 

  あらゆる宗教的な技法、つまり ヨガや瞑想や禅の技法の意図するものは、基本的に、中心との接触の回復であり、内側へと 向かうことであり、表層部を 忘れることだ。

しばらくのあいだ 表層部を離れ、自分自身の中に 深くくつろげば、外側が完全に消え去り、内側だけが残る。

 

  いったん 後戻りする術を知ったら⋯⋯自分自身の中へ退く術を知ったら、もはや難しいことはない。

いとも簡単なことだ。

でも 知らなかったら⋯⋯表面に固執する心しか知らなかったら、それは とても難しい。

自分自身の中に くつろぐことは 難しくない。

表面に 固執しないことが 難しい。

 

  スーフィーの話に こんなものがある。

あるとき、スーフィー行者が 一人、旅をしていた。

ところが 闇夜のことで、道に迷ってしまった。

あたりは真っ暗で、どこを歩いているのか まったくわからなかった。

そして 突然、断崖から落ちてしまった。

戦慄が走った。

闇夜のことだから、下に何があるのか、谷が どのくらい深いのか、まったく わからなかった。

ともかく 木の枝に つかまり、祈り始めた。

夜は寒かった。

叫んでは みたものの、聞く者は誰もいなかった。

ただ 声が こだまするだけだった。

夜は 寒かったから、そのうち 手がかじかんできて、いつ枝から 離れるかわからなかった。

つかまっているのが だんだんつらくなってきた。

手が ひどくかじかんで、もう滑り始めていた。

死は迫っていた。

いつ落ちて死ぬかわからなかった。

 

  そして ついに最後の瞬間がやってきた。

それは もうたいへんな恐怖だった。

刻一刻と 死の瞬間が近づき、ついに 最後のときがやってきた、そしてその手は 枝から滑り落ちた。

ひどくかじかんでいたため、それ以上 つかまっていられなかった。

だから 落ちるしかなかった。

ところが 落ちたとたん、彼は踊り始めた。

断崖絶壁など なかった。

すぐ下が 地面だった。

それなのに 一晩中、苦しんでいたわけだ。

 

  これこそが人々の状況だ。

表面に しがみついている。

そして、「表面から離れたら、自分は おしまいだ」と恐れている。

でも実際は、表面に しがみついていると、あなたは おしまいだ。

ただ、奥底は闇で、地面は 見えない。

見えるものは 表面だけだ。

こうした技法はすべて、勇気や 力や 大胆さをもたらす。

それによって あなたは、しがみつくのをやめて、自分の中へ 落ちていけるようになる。

暗い、底なしの断崖のように見えるものは、じつは 自分の 存在の地面だ。

いったん表面を、表層部を離れたら、あなたは 中心に据わる。

 

  この 中心を定めること(センタリング)こそが 的だ。

いったん 中心に定まったら、たとえ表層部へ赴いたとしても、もう昔とは まったく別人になっている。

意識の質が すっかり変わる。

表層部へ もどることもできるが、もはや二度と 表層部にはならない。

ずっと 中心に とどまっている。

中心にとどまっていれば、表層は 美しい。

表層を 楽しむことができる。

表層は 美しい遊びとなる。

もはや 葛藤はない。

ただのゲームとなる。

もはや表層は 緊張を生み出さず、苦しみも悩みも 存在しなくなる。

また、表層部が重荷になり 耐え難くなったら、いつでも源泉へ戻れる。

ひと風呂浴びて、さわやかになり、若返って、また表層部に向かえばいい。

 

  いったん その道を知れば⋯⋯その道は 長くない。

ほかでもなく自分自身へと戻るのだ。

だから 長い道のりではない。

すぐ そばだ。

唯一の障害は、表層への しがみつきだ。

「もし表層を離れたら、自分は おしまいだ」という恐れがある。

その恐怖は、自らの死に似ている。

内側の中心へ向かうことは、ひとつの死だ。

表層部への同化が 死に、自分の存在の 新たなイメージ、新たな感覚が 生じてくる------その意味での死だ。

 

  タントラの教えを 手短に言うなら、自分自身への 深いくつろぎ、自分自身への全面的なくつろぎだ。

 

  あなたは いつも緊張している。

それこそが しがみつきであり、固執だ。

あなたは 決してくつろがない。

決して ゆだねの状態にない。

いつも 何かをしている。

その することこそが 問題だ。

決して 無為の状態にない。

  物事が 起こっているとき、何もせずに そこにいてごらん。

息は 出入りし、血液は 循環し、体は生きて脈打ち、そよ風は 吹き、世界は 回り続ける------そして あなたは何もしない。

あなたは 行為者ではない。

あなたは ただくつろぎ、物事は 起こり続ける。

物事が起こり続け、あなたが行為者でなければ、それが くつろぎだ。

ところが、あなたが行為者であり、物事が起こるかわりに 自分で 物事を操作していたら、あなたは緊張している。

 

  眠っているとき、あなたは部分的にくつろぐ。それは 全面的なものではない。

眠りの中でさえ、あなたは 操作を続ける。

眠りの中でさえ あなたは、すべてを 起こるがままに しておかない。

眠っている人間を 見てごらん。

緊張していることがわかるだろう。

体全体が 緊張している。

でも 眠っている子供を 見てごらん。

じつに くつろいでいる。

あるいは 動物だ------たとえば 猫。

猫は いつもくつろいでいる。

 

  ところが人間は、眠っている間でさえ くつろいでいない。

緊張し、もがき、動き、何かと闘っている。

その顔には 緊張がある。

夢の中でも 闘ったり守ったりしている。

目醒めているときと 同じことを、内側のドラマとして 繰り返している。

だから くつろいでいない。

深いゆだねの状態にない。

  だからこそ 眠りが だんだん難しくなってきているのだ。

心理学者によれば、もしこの状態が 続けば、まもなく 誰も自然に眠れなくなる。

それで 薬に頼るしかなくなる。

誰も 自然に就眠できなくなる。

そんな日も 遠くない。

人々は すでに その途上にいる。

眠っているときでさえ、たんに 部分的に眠っているだけだ。

部分的にくつろいでいる だけだ。

 

  瞑想とは 最奥の眠りだ。

瞑想とは、全面的なくつろぎ プラス 何かだ。

つまり全面的に くつろぐとともに、覚醒していることだ。

意識が そこにある。

全面的な眠りに 覚醒を加えたものが 瞑想だ------完璧に 覚醒している。

物事は 起こっているが、あなたは もはや抵抗することも戦うこともない。

何も していない。

行為者が 存在しない。

行為者は 眠りに就いている。

ただ 観照者だけがある。

非行為的意識だけがある。

もはや 何事にも悩まされることがない。

 

  くつろぐ術を 知っていたら、もはや 何事にも悩まされなくなる。

くつろぐ術を 知らなかったら、すべてに 悩まされる。

すべてによってだ。

何かによって悩まされるのではない。

すべては 口実だ。

その当人が いつでも悩まされる状態にある。

ひとつのものに 悩まされなかったとしても、別のものに 悩まされる。

あなたは いつでも 悩まされる状態にある。

悩まされる という傾向がある。

 

  たとえ悩みの原因が すべて解消されても、依然として悩まされる。

必ず 何かの原因を 見つけだす。

必ず 何かの原因を 作り出す。

もし何も 外から やってこなければ、何かを 内から作り出す------何かの思考なり 観念なりを。

そして それによって悩まされる。

とにかく 口実が 必要だ。

 

  しかし、ひとたび くつろぐ術を知ったら、もう何事にも 悩まされなくなる。

世界が 変わったわけでも、物事が 変わったわけでもない。

世界は そのままだ。

でも もはやその傾向が ない。

その 狂気が ない。

いつでも悩まされる状態が もうない。

すると、自分の まわりに起こることすべてが、安らぎとなる。

交通騒音でさえも 安らぎとなる------くつろいでいれば だ。

繁華街の 喧騒でさえも やすらぎとなる。

それは 自分次第だ。

それは 内側の質 だ。

 

  中心へ 行けば 行くほど、その質は 増大する。

表層部へ 行けば 行くほど、悩みは 増大する。

だから あなたが よく悩むようなら、あるいは、悩むという傾向が あるようなら、それが示すことは ただひとつ、あなたが表層近くに存在している ということだ。

それ以外の何物でもない。

つまり それは、あなたが表面付近に 住みかを定めているという指標だ。

その住みかは 偽りだ。

真の家は 中心にある。

自らの存在の まさに中心にある。

 

 

 ◎⋯⋯98  ハートの中の平安を 感じる

 ◎⋯⋯第一の技法 へ つづく⋯⋯

 

第6章 独存の痛み ◎⋯⋯最後の質問。

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 ◎⋯⋯最後の質問

「お話によると、私たちの携わっているのは糸、つまり本質だとのことです。 でもその私たちとは誰のことでしょう。 というのも、今この状態の私たちは、珠の方、出来事の方に携わっているからです。 私たちは出来事に生きています」

 

 

  『私たちが携わっているのは、糸であり、本質であり、根本であり、真なるものだ』と 私が言うとき、その『私たち』とは あなたのことではない。

今 この状態のあなたではない。

ありうる姿の のあなただ。

『あなた』は 二つある。

今この状態の『あなた』は 真なるものではない。

それは 偽りのものであり、容易に捨て去ることのできる イメージ だ。

真なる『あなた』を 知ることができるのは、あらゆる仮面を捨て去ったときだけだ。

だから私が『私たちの携わっているのは糸だ』と言うとき、その『私たち』が示すのは、真実の あなただ。

エゴではなく、魂としての あなただ。

 

  あなたは 二つだ。

見かけの あなた と、あるがままの あなた だ。

その見かけが 携わっているものは、出来事であり、珠であり、表面だ。

でも 内側のもの、あるがままのあなたは、まったく出来事に 携わっていないし、時間に 携わっていない。

あるがままの あなたが携わっているのは、永遠だ。

 

  ブッダの前生のひとつに こんな話がある。

ブッダが まだブッダになっていなかったときの話だ。

その生では、ブッダは、ほかの誰にも劣らず無知だった。

あるとき彼は、ある悟った人間のことを耳にした。

そこで 彼は、その人間のもとに赴き、その足に触れ、その接見(ダルシャン)を得た。

悟った人の足に触れ、身を起こすと、驚いたことに、悟った人が 彼の足に触れているではないか。

彼は言った、「どういうことですか。  私は無知で、悟っておらず、罪ある人間です。あなたは悟っています。かつて私の見た中で、もっとも純粋な光です。それなのに なぜ私の足に触れるのですか。私は御足に触れるためにきました。なぜ私の足に触れるのですか」

  悟った人は 笑って言った、「私は あなたの足に触れているのではない。あなたの中に隠れている本質、魂⋯⋯その足に 私は触れているのだ。その本質は もう悟っている。いつかあなたもそれを知ることだろう。それを知るに至ったら、このことを思い出しなさい。いつの日か あなたもまた、私がここに礼拝したものを知るようになるだろう。今 あなたはまだ知らない。今 あなたは、まだ自分自身の宝を知らない。でも私は自分の宝を知っている。そして自分の宝を知ったとき、私は 人々みなの宝がわかるようになった」

 

  悟った人は ブッダに言った、「悟ったとき、私は あらゆる人間の真実がわかるようになった。自分自身を だまし続けたいなら、それも勝手だ。でも私には、あなたの中の 純粋無垢な光が見える。もしあなたがそれを悟ったら、私のことを思い出しなさい」

 

  そして 次の生で ブッダが悟ったとき、彼は 弟子たちに言ったそうだ「当時の私には、あの悟った人の言ったことがわからなかった。それは謎だった。でも今になれば、その意味がわかる。もはや 見かけは去った。今 私のあるところのものは すべて、当時もそのままだった。きっと彼は それに礼拝したのだ」

 

  だから私が『私たち』と言うとき、それが 示すものは、あなたの可能性であって、あなたの見かけではない。

あなたの 見かけは ただの夢だ。

でもあなたは それに気づいていない。

もしあなたが「自分は夢を見ている」と 気づけば、その夢は やむ。

あなたは 真のあなたに 気づいていない。

もし それに気づけば、見かけは 消え失せる。

 

  私は 気づいている。

だから、いろいろ難しいのだ。

私から見れば、あなたは悟った人だ。

あなたは すでに それだ。

あなたは ただ無知のゲームを演じているだけだ------自分自身を欺こうとしているだけだ。

でも何をしようとも、最奥の真実には何の変わりもない。

それは ずっと無垢で 純粋のままだ。

絶対的に 純粋だ。

 

  もし 私が あなたの表面を見れば、教えるべきことは たくさんある。

でも あなたの内側を見れば、教えることは 何もないし、何かを する必要もない。

その意味で 私はこう言うのだ------「私たちの携わっているのは、糸であり、本質であって、珠でも、出来事でも、外的事象でもない」

 

  だから、いつか あなたが悟ったら、私の言う『私たち』が どういう意味か、何を示していたか、きっとわかるようになるだろう。

確かに その言葉が示すものは 今あるままの あなたではない------つまり 私の目の前にいる その『見かけ』ではない。

それが 示すものは、あなたが 今までずっと そうであったもの、そして これからも ずっとそうであるものだ。

それが現れるのは、このカーテンが 捨て去られたとき、またこの雲が 消え去って太陽が昇るときだ。

私の目には 雲の背後の太陽が見える。

 

  あなたは 雲に同化しきっているため、私の言うことが 信じられない。

私が「あなたは もう悟っている」と言っても、どうしてそれが 信じられるだろう。

あなたは こう言うだろう、「きっと私をだまそうとしているんだ」

 

  これは 真理だ、しかし 真理を理解するのは難しい。

自分自身に 到達するのは、あなたにとって 長い旅となる。

「自分の家こそ 目的地だった」と 悟るのは⋯⋯「自分の到達したいと欲していた場所に、自分は 今までいつもいた」と悟るのは、あなたにとって 長い旅となる。

 

 

 第6章   独存の痛み  おわり⋯⋯

 第7章   表層を忘れる へ つづく⋯

第6章 独存の痛み ◎⋯⋯第四の質問。

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 ◎⋯⋯第四の質問。

 

「人間には子宮の中に入りたいという生得の願望があります。それで お聞きしたいのですが、性行為への欲望、すなわち進入への欲望は、子宮回帰の願望の象徴でしょうか」

 

 

  その通り。

その願望の 一部だ。

自然の中のもの すべては、源泉へ回帰したいと願う。

それは ひとつの法則だ。

中間に 起こることは どうでもいい。

円環は すべて、終わりへと、あるいは 始まりへ源泉へと、もどる。

 

  人は 子宮から生まれる。

そして 人は、悩んだり 落ち込んだりすると、あるいは、世の責任が ずっしりと肩にかかり、重荷に感じたりすると、いつも子宮に戻りたくなる。

それで 女性の中に入りたいという欲望が生じる。

ただ 実際に入るわけにはいかない。

再び 子供になるわけにはいかない。

そこで 性行為が 象徴的な行為となる。

進入が 象徴となる。

そうやって 再び子宮の中に入る。

だからこそ、セックスは くつろぎをもたらすのだ。

緊張は 消え去り、心の重荷は下ろされる。

少なくとも そのときだけは、あなたは エクスタシーの中にいる。

それは 浄化(カタルシス)だ。

多くの塵芥が払われる。

だからセックスは あなたを解き放ち、くつろがせる。

相手の女性は 子宮となる。

それもあって、人は セックスに魅かれるのだ。

 

  あなたは 気づいていないかもしれないが、安楽のために作られたもの すべては、子宮に似ている。

たとえば 部屋でくつろぐためには、戸を閉め、体温くらいの暖かさで、静かであった方がいい。

まさに 子宮のようだ。

また 寝室にしても、子宮のような状況が そろっていたら、深く眠れる。

壁の時計でさえも 手助けしてくれる。

チック タック、チック タックという その音は、母親の心音と同じだ。

トックトックというその音を、子宮の中の子供は 聞き続ける。

その チック タックという音が 眠りを助ける。

またマットレスや 枕といった、私たちの使うすべてが、実際、子宮に 似ている。

それで 現在、科学者によれば、そのうち まったく子宮と同じような寝室ができるらしい。

もっとも深い眠りが それによってもたらされる。

 

  ニルヴァーナ(涅槃)という 究極の概念もまた、子宮に 似ている。

子宮の中の子供は どこまでも自由だ。

まったく 何の責任もない。

どんな欲求も 知ることがない。

欲求は 起こる前に満たされる。

  それが ヒンドゥー教徒の言う「カルパブリクシャ」だ。

天国に木が生えている------その木の下に 座っていれば、欲求が生じても、すぐに満たされる。

時間的ずれはない。

欲求と供給との間、需要と供給との間に、時間差がない。

欲求が 現れるや満たされる。

 

  これが 子宮の中で 起こっている。

子宮とは カルパブリクシャ、「願望成就の木」だ。

子供は 決して空腹を 感じることがない。

空腹は 現れる前に 満たされる。

また 渇きを感じることもない。

渇きは 現れる前に 満たされる。

だから子供は 闘争や緊張を知ることがない。

ただ沈黙のうちに、自分を取り巻く宇宙によって 奉仕されている。

心理学者に言わせれば、胎児が意識的でないのは そのためだ。

意識的であるためには 闘争や 葛藤が必要だ。

 

  意識が成長するには、まず需要があって、それから時間をおいて 供給されることが必要だ。

その時間差が 人を意識的にする。

もし 時間差が 存在しなかったら、もし必要なものが 何でも即時に 満たされたら、あなたは眠ってしまう。

それで子供は 九ヵ月間、眠り続ける。

一瞬たりとも 目醒めることがない。

その必要がない。

必要は すべて満たされる。

痛みもなければ、苦しみも、緊張もない。

だから 目醒めるという可能性もない。

だから 子供は眠る。

  そして 彼が生まれるとき、その衝撃といったら、フロイトに言わせれば、誰も そこから回復できないくらいの 大きさだ。

それによって 精神的外傷(トラウマ)が 生じ、内側に傷として残る。

まさに 彼の言う通りだ。

子供にとって、生まれるということは 衝撃だ。

それは エデンの園、つまり楽園から放り出されることだ。

今まで すべては すばらしかった------すばらしかったせいで、彼は眠っていた。

その快適さといったら、一瞬たりとも目醒める必要がないくらいだった。

それは 夢の国だった。

ところが 今、力ずくで 放り出されてしまった。

 

  無意識のうちに 子供は、子宮に 残ろうと もがいたかもしれない。

それを 確かめるのは 難しいが、その可能性は充分ある。

子供は 無意識のうちに、子宮に残ろうと もがき、どうにかして 外に出まいとしたかもしれない。

だからこそ、痛みと 苦悩を味わうのだ。

彼は 放り出されようとしている、追放されようとしている。

子宮外の最初の瞬間は、必ずや 子供の体験する中で 最大の苦しみとなるだろう。

死でさえも それほどの苦しみではない。

 

  最初の瞬間、子供は 自分で呼吸を始めないといけない。

そして すでに始まっている世界は、ありとあらゆる悩みでいっぱいだ。

これから彼は 自らの責任をとることになる。

自らの重荷を 背負っていくことになる。

彼は 母親から 放り出された。

呼吸をし、空腹のときには 泣かないといけない。

でも 何も 確実ではない。

たとえ 空腹でも、それが 満たされるかどうかは 確実ではない。

それは 状況による。

すべては 状況しだいだ。

だから 何かが必要なときには いつも苦闘することとなる。

とはいえ、私たちは、あらゆる手を尽くして 子供の面倒を見る。

だから その衝撃は それほどでもない。

耐えられないほどではない。

母親は いつも子供の必要を すぐに満たしてくれる。

 

  そのせいで 子供は、自分のことを 世界の中心だと思うようになる。

世界は自分に従うものだ、ただ 泣きさえすれば、世界は 自分の足元にひれ伏す⋯⋯。

これは 非常にエゴ的な 出発点だ。

だから 子供は みなエゴ的だ。

それで 次の衝撃が やってくる。

出生というのは、最初の誕生でしかない------数多(あまた)の誕生の始まりだ。

人間という現象を 深くまで知っている者は、次のように 言う。

人の一生は 連続的な誕生だ。

誕生は 数多くある。

ある日、母親は 乳を与えるのを拒否する。

今後、子供は 食物を摂ることになる。

自分で 噛むことになる。

責任は 増大する。

食物を噛み、消化することになる。

乳のときは 違った。

子供は 何もせず、ただ吸うだけだった。

  日に日に 責任は増大し、子供は 母親から遠ざけられる。

母親から 遠くなればなるほど、子供は 世界に取り巻かれる。

世界は 敵対的だ。

子宮は 決して敵対的ではなかった。

あくまで 友好的だった。

でも世界は 友好的でない。

世界には 競争がある。

そして誰もが 相手方に好意を持ち、自分には好意を持ってくれない。

世界は 母親ではない。

 

  そして 学校に通う年になり、子供は 敵意に満ちた世界に 入っていく。

その世界は 傷(トラウマ)や 衝撃で いっぱいだ。

それが 延々と続く。

究極の訣別は 女性と恋に落ちるときだ。

彼は 大人になろうとしている。

これこそ 母親との 最後の訣別だ。

最後のきずなは 破れる。

でもこの「大人子供」の振舞は、まるで 妻が自分の母親であるかのようだ。

妻は 母親ではない。

彼女の関心は 自分自身にある。

彼の関心も 自分自身にある。

どちらの関心も 自分自身にある。

両方ともに エゴだ。

 

  夫というのは みな、妻を 母親のように振舞わせようとする。

そこに葛藤が 生まれる。

妻は そのようには 振る舞えない。

彼女には 彼女の関心がある。

母親は まったく献身的だった。

  だから男は みな妻に不満を抱いている。

妻が 母親になってくれないからだ。

それは べつに、良妻・悪妻の 問題ではない。

母親になれる妻は いない。

男は みな不満を抱いている。

私は いまだに不満を抱いていない男に 出会ったことがない。

だいたい 不満を抱かないほうが 不可能だ。

なぜなら その欲求が不可能だからだ。

  でも 妻の中に入れば気持ちいい。

それは 再び子宮の中に入ることだ。

その進入は 象徴的なものだ。

しばらくの間、あらゆる悩みや、世界や、すべてを忘れ去る。

そして 再び子供になれる。

妻なり恋人と 深く愛を交わしている男を 見てごらん。

その顔は 子供のようだ。

緊張は すっかりなくなっている。

愛の中で 妻が夫のことを「赤ちゃん(ベイビー)」と呼ぶのも、ただの偶然ではない。

 

  こんな話がある。

夜中に 家が火事になった。

だいぶたって 女が助け出された。

でも 気違いのように 泣きわめいていた、「私の赤ちゃん(ベイビー)が まだ中に」。

すると突然 そのベイビーが現れた------ベランダの上に 百七十キロの巨漢が 出てきて、「心配するな、ちゃんと生きている。今 おりていくから」と言う。

集まった群衆は、それを見て首を傾げた。

つまり、二人は深い愛の中にいた⋯⋯一緒に寝ていた。

つまり男は ベイビーだった。

 

  心(マインド)は 子宮のような状態を 再び探し求める。

でも 子宮の中に入るわけにはいかない。

性行為の中でもだ。

そのような気がするだけだ。

再び 子宮に戻るとしたら、道はただひとつ------それは 物理的なものではなく、心理的なものだ。

あるいは より深層においては、精神的(スピリチュアル)なものだ。

もし 宇宙とひとつになれたら、あなたは再び子宮の中にいる。

それは もはや、奪うことができない。

すると〈存在〉全体が 母親となる。

 

  宗教の中には、神のことを 父ではなく 母と呼ぶものがある。

私に言わせれば、そういう宗教のほうが 科学的だ。

神のことを 父と呼ぶ宗教は それほど科学的ではない。

父というのは あまり本質的なものではない。

ただの 偶然だ。

父は 歴史上、つねに存在していたわけではない。

母(マザー)という 言葉のほうが、父(ファーザー)よりも ずっと古い。

そればかりか、おじ(アンクル)という言葉のほうが、父(ファーザー)よりも まだ古い。

五千年前には 結婚が存在しなかった。

集団が 一緒に暮らしていた。

子供は 自分の母親なら知っていたが、誰が 父親かは わからなかった。

だから その集団の男はみな、おじ だった。

おじは 父より古い言葉だ。

男は みな おじだった。

誰が 父親か わからなかった。

  父が現れたのは その後だ。

一人の男が 一人の女の上に君臨し、他の男たちすべてを排除したとき、父が 出現した。

また、この先、いつまで父が存在するかも わからない。

なぜなら家族が 消失しかけているからだ。

父は 永遠のものではない。

たんに 制度的なものだ。

父は 消え去る運命にある。

将来的には 存在できない。

もはや 父に望みはない。

きっと なくなる。

そして おじが 再び重要になる。

 

  母は基本だ。

父は 社会的なものであり、廃棄もできる。

その存廃は 制度しだいだ。

社会の 考え方しだいだ。

でも 母は廃棄できない。

だから 神を 母として考える宗教のほうが ずっと深い。

そして 母なる神の中に入り、それとひとつになるというのは、永遠の子宮に入るということだ。

もはや そこには 痛みも苦しみもない。

もう 二度と そこから放り出されることはない。

 

 

 ◎⋯⋯第四の質問。おわり⋯⋯

 

 ◎⋯⋯最後の質問。へ とつづく、

第6章 独存の痛み ◎⋯⋯第三の質問。

 

  ◎⋯⋯第三の質問。

 

「昨日の第一の技法によりますと、孤独の中に住んで関係性を最小限にせよとのことでした。でも以前のお話によると、無限の拡張の中で関係性を最大限にせよということですが」

 

 

  その どちらかを やってみる。

  自分自身を拡張させる------自分に無関係なものは 何もないくらいに。

すると あなたは 消え失せる。

 

  また、まったく一人になる------自分に関係するものは何もないくらいに。

すると またあなたは消え失せる。

  あなたは その真ん中にいる。

関係している物もあれば、関係していない物もある。

友人である者もいれば、敵である者もいる。

自分の側に いる者もいるし、自分の側にいない者もいる。

それは 選択するせいだ。

あなたは その真ん中にいる。

だから どちらかの極端に移るのだ。

存在する すべての物、すべての人間に関係すれば、あなたは消え失せる。

あらゆるものと関係するのは途方もない現象だから、あなたは 存在できない。

飲み込まれてしまう。

エゴは じつに狭いものだから、少数の関係の中でしか 存在できない。

その少数の中でも、エゴは どれかに敵対する。

そうしないと 存在できない。

 

  あらゆるものに友好的だったら、あなたは 消え失せる。

もし エゴとして存在したかったら、友好的であるとともに、なにかに敵対する必要がある。

誰かを 愛し、誰かを憎む。

そうして初めて あなたは存在できる⋯⋯この 二つの対立物の中に エゴは存在する。

だから、存在するすべてを 愛せば、あなたは消え失せる。

また、すべてを憎めば、あなたは消え失せる。

その両方は 一見矛盾しているようでも、じつは そうではない。

技法としては 同じだ。

すべてを 愛そうが、すべてを憎もうが、技法としては 同じだ。

すべてに対する憎しみは、東洋においては ヴァイラギヤ、「放棄」として知られている。

それは すべてに対する憎しみだ。

つまり、自分の愛を 完全に引っ込め、すべてを無用のもの、何の価値もないものとみなす。

 

  もし全面的に 憎むことができたら、あなたは全面的になり、もはや存在できなくなる。

あなたが存在できるのは、愛と憎しみという 二つの対立物が あればこそだ。

その 二つの間に、あなたは バランスを とっている。

それは ちょうど綱渡りのようなものだ。

綱渡りをするときには、左右の間に バランスをとる。

左に寄りすぎれば落ちるし、右に寄りすぎても落ちる。

だから 左に行くも右に行くも 変わりはない。

ひとつ選べばいい。

そうすれば 綱から落ちる。

 

  もし綱渡りをしたかったら、ときには左、ときには右に、バランスをとる。

バランスというのは、まさに科学だ。

もし左に寄ったら、すぐに 右に寄らないといけない。

寄りすぎたら 落ちる危険性がある。

だから 釣り合いをとるために 右に寄る。

そして右に寄ったら、また 落ちる危険性がある。

だから 左に寄る。

だからこそ、あなたは絶えず、愛と憎しみの間、友人と敵の間、これとあれの間、好きと嫌いの間、引力と斥力の間を、揺れ動いているのだ。

あなたは いつも綱の上を進んでいる。

このことを 理解しなければ、生をまったく見誤ってしまう。

 

  私は 今まで じつに多くの人々を見てきたが、みな この同じ問題で 悩んでいる。

彼らは 愛し、そして憎む。

そして自分では理解できない------「なぜ自分は 愛しているにもかかわらず憎むのか」。

彼らは そうやってバランスをとっている。

そして バランスをとることによって、エゴが、「個」が 維持される。

だから もし本当に エゴを落としたいなら、どちらかの極端を選べばいい。

左へと寄る------つまり愛する、決して 右へバランスをとらない。

そうすれば 綱から 落ちる。

あるいは 右へと寄る------憎む、憎みぬく、決して 左へ 寄らない。

そうすれば 綱から落ちる。

 

  マハヴィーラは「あらゆるものから離れなさい」と 言う。

これは 憎しみだ。

クリシュナは「愛しなさい」と 言う。

それゆえ ジャイナ教徒には クリシュナの教えが まったく理解できない。

不可能だ。

また ヒンドゥー教徒は マハヴィーラに何の注意も払わない。

ヒンドゥー経典には 彼の名前すら載っていない。

一度も 出てこない。

  ヒンドゥー教徒が マハヴィーラに何の注意も払わないのは、その教えのせいだ------「あらゆるものから離れなさい。それが憎しみとなるくらいに」。

そして クリシュナは言う、「愛しなさい。憎しみが 心からすっかり消え去るくらい、深く愛しなさい」。

どちらも 同じだ。

一見、反対のようでも、そうではない。

 

  左へ寄ろうと 右へ寄ろうと変わりはない。

ただ 地面に落ちるだけだ。

もうあなたは 綱の上に いなくなる。

それは 確実だ。

その 綱というのは、エゴであり、世界であり、サンサーラであり、その上で あなたはバランスをとっている。

たくさんの人々が 私を愛するが 私にはわかっている------そのうち 彼らはきっと バランスをとり、私を 憎むことになる。

そして 憎むようになると、彼らは当惑する。

べつに 当惑する必要はない。

綱の上に いたら、そうなるのも当然だ。

でも 長いあいだ 憎んでもいられない。

また バランスをとる必要がでてくる。

 

 朝のうちは 愛し、夕方になると 憎み、また朝になると 愛する。

エゴを去る 覚悟がないかぎり、バランスとりは 続く。

それは 永遠に続く。

綱に 終わりはない。

でも ひとたび その遊戯にうんざりしたら、ひとたび その無意味さを 感じたら⋯⋯「いつもいつも同じだ、愛と憎しみでバランスをとり、そのたびに反対方向へと向かう、それは無意味だ」と 感じたら、そのときには 一方に よればいい。

愛か 憎しみか どちらか一方だ。

そして 綱から落ちるのだ。

ひとたび綱から落ちたら、それが悟りだ。

バランスこそが、サンサーラ、「世界」だ。

 

 

 ◎⋯⋯第三の質問。おわり⋯⋯

 

 ◎⋯⋯第四の質問。

「人間には子宮の中に入りたいという生得の願望があります。それで お聞きしたいのですが、性行為への欲望、すなわち進入への欲望は、子宮回帰の願望の象徴でしょうか」。

 へ つづく⋯⋯

第6章 独存の痛み ◎⋯⋯第二の質問。

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  ◎⋯⋯第二の質問。

「昨夜のお話によりますと、独存とは 人間の本質であり究極の真実だということです。 一方、先日のお話によれば、個人性は偽りで、人間というのは、〈存在〉という有機的全体の ひとつの波だということです。 では、この独存と全体性を どのように調和させたらいいでしょうか」

 

  調和させる必要はない。

独存は 全体性だ。

独存は「個」を意味しない。

あなたが 個であるのは、社会ゆえだ。

あなたが まったく一人になったら、もはや 個でなくなる。

  個というのは、社会の一部、社会の 一単位という意味だ。

群衆の中にいるとき、あなたは個だ。

群衆から 外に出れば、たんに群衆が後にされるばかりでなく、個人性もまた 後にされる。

その個人性は 社会に由来するものだ。

個人性と社会は、ひとつの現象の 二つの極だ。

一人であれば、個ではない。

個というのは、社会というパターンの中で 存在するものだ。

それは私が 前に言ったように、「一人であれば善くも悪くもない。一人であれば聖人でも罪人でもない。一人であれば美しくも醜くもない。一人であれば利口でも馬鹿でもない」ということだ。

つまり 二元性の 両方が落ちる。

 

  個は 社会の中に存在する。

個は 社会の中の単位だ。

一人であれば 個ではない。

だから「一人になれば、自分は個になる」と 考えてはいけない。

個には ならない。

社会が存在しなかったら、どうして個になれるだろう。

あなたはそこに存在し、その独存が 全体性となる。

エゴは 落ちる。

その エゴこそが、個という感覚をもたらす。

 

  一人であるとは、決して「私は個だ」という意味ではない。

一人であるとは、社会と個人という二文法が もはや存在しないということだ。

それによって 全体性が現れる。

もうあなたは いかなるものの部分でもない。

あなたは 全体となった。

 

  このことを 言語で表現するのは難しい。

言語上では、それは不条理に映る。

「一人で いながら 個ではない」とは 想像できない。

たとえば、どこか山の上なり、ヒマラヤの洞窟の中に座っている自分を想像してみれば、やはりあなたは 一個人だ。

でもそれは 独存というものを 知らないためだ。

独存というのは、社会に由来する あらゆる想念、あらゆるマインド、あらゆる個人性を 後にするということだ。

そしてあなたは、ただの 空間、空虚になる------誰でもなくなる。

ヒマラヤの洞窟に 座っていれば、そこに座っている者は誰もいない。

ただの 空間だ。

 

  あるときブッダは 木の下で瞑想していた。

その晩は満月で、何人かの若者が 森へと繰りだしてきた。

たくさんの 酒を携え、一人の若い娼婦を伴ってきた。

でも あまりに飲んで 酔っ払ったために、娼婦は逃げだした。

女がいないのに気づいた若者たちは、いったいどこに行ったのか捜しにでかけた。

  捜しているうちに、木の下で瞑想しているブッダに出会った。

そこで 彼らは尋ねた------あなたは 見なかったか。

若くて、美しくて、裸の女が ここを通ったはずだ。

道は これひとつしかないし、月は 満月だ。

だから、美しくて、若くて、裸の女が通れば、必ずや目にしたはずだ。

あなたは 見なかったか。

  ブッダは 目を開(あ)け、言った------誰かが 通った。

でも 通った者が 女か男か、私には わからない。

また その者が 美しかったか醜かったか、私には わからない。

またその者が 着衣だったか裸だったか、私には わからない。

確かに誰かが 通った。

足音が聞こえた。

 

  彼らは びっくりして言った------そんなこと あるわけがない。

 

  ブッダは言った------以前の私なら、やはり そんなことは信じもしなかったろう。

私が 社会の一部だったころは、信じもしなかったろう。

でも社会を去った今、あらゆる社会の概念も また消え去った。

今は ただ、自然が私のまわりに起こるだけだ。

だから 私が聞いたのは、誰かが 通り過ぎたということだ。

ただ 音が私の内側の空間に達した。

それだけだ。

誰かが通っていった。

 

  あなたは 静かな内的空間となる。

そのときあなたは 個ではない。

なぜなら あなたはマインドではないからだ。

マインドを落とすには 孤独が好適だ。

マインドとともに すべてが落ちる。

そのうち、自分が もはや誰だかわからなくなるときがやってくる。

そのときこそ、真の知識が始まる。

  そのうち、もはや自分が誰だか まったく忘れるようになる。

今まで知っていたものは、もはやなくなる。

もはや古い葉は すべて落ちている。

まさにそのとき、しばらくの間、隙間(すきま)が現れる。

この隙間は 大きな苦悩となるだろう。

なぜなら、古いものは すでに去り、新しいものは まだ到来していないからだ。

古い葉が 落ちると、木は しばらくのあいだ裸で、新しい葉の 出現を待つ。

新しい葉は 現れようとしている、現れる途上にある。

古い葉は すでに場所を譲っている。

今 その場所は空(あ)いている。

そして新しい葉は その場所に向かって萌え出し、やがて 外に現れる。

でも 待つことが必要だ。

 

  独存の中で瞑想していると、社会が落ち、マインドが落ち、エゴが落ち、そこに隙間が現れる。

その隙間も また通過しないといけない。

今、木は 新しい葉の到来を 待っている。

でもすることは 何もない。

いったい 木に何ができるだろう。

何をしたところで、葉の到来は 早まらない。

それにはそれの筋道がある。

 

  古い葉が落ちたのはいいことだ。

おかげで 場所がある。

場所が あるから、新しいものが出現できる。

もはや 障害はない。

 

  これは内的なマインドの 秋だ。

葉は落ちる。

それは 苦痛だ。

あなたはずっと 長い間、その古い葉とともに生きてきた。

だから、何かを 失ってしまうような感じがする。

そして 冬がある。

それは待つ期間であり、内的な冬だ。

あなたは 裸だ。

葉もなく、裸の木が 空中に立っている。

そして これから何が起こるかわからない。

今、すべては止まっている。

枝に鳥がやってきて さえずることもなく、木陰に誰かがやってきて座ったり、人を待ったり、くつろいだりすることもない。

はたして自分は死んでいるのか、あるいは新しい生命が自分に起こるのか、まったく わからない。

それは 隙間だ。

 

  キリスト教の神秘家たちは、これを「魂の闇夜」と呼んだ。

日の出の 前、灯火はすべて消され、夜は さらに暗いものとなる。

日の出に近い頃が、もっとも暗い頃だ。

だから これは内的な魂の冬だ。

葉もなければ、鳥のさえずりもないし、木陰に人がやってきて座ったり、くつろいだりすることもない。

まさに死んだように感じられる。

すべてが 止まっている。

あらゆる動きは 去った。

それを 通り抜けることだ。

そうすれば 春がやってくる。

新しい葉が現れ、新しい生命、永久不滅のもの、新しい花々が やってくる。

自分の内側に、まったく新しい局面が現れる。

  でも 秋のことや、冬のことを忘れてはいけない。

そうして初めて、春は可能となる。

秋もまた 春の一部だ------もし あなたに理解できたら⋯⋯。

秋があってこそ 春も現れる。

秋は 春に対立するものではなく、春の始まりだ。

また その隙間もまた必要だ。

隙間があってこそ 準備ができる。

 

  古いものは すでに去った。

もはや それによって 苦しめられることも、重荷にあえぐこともない。

あなたは妊娠している。

妊娠とは 待つことだ。

新しい子供が成長している。

子供というものは、出現する前、世に現れる前、無意識の中 深く隠れている。

どんな種子も、闇の中、下の方に、深く隠れている。

そうして初めて、そこに 生命が起こる。

種子が 陽光にさらされていたら 何も起こらない。

種子に必要なものは、深い闇であり、子宮だ。

だから 冬がある------あなたは妊娠している。

あらゆる動きは 止まり、あなたは重荷を担うことになる。

意識しつつ、理解しつつ、愛と、望みと、祈りと ともに、待つことが必要だ。

  そうすれば 春がやってくる。

今まで いつもそうだった。

人もまた 木と同じだ。

  そしてあくまでも、独存は全体性だ。

両者は 矛盾するものではない。

エゴは 部分だ。

エゴは 断片的なものであって、決して全体ではない。

エゴは 全体に対立する。

独存の中で、エゴは 消え去る。

あなたは 全体とひとつになり、境界は消え去る。

真に 一人になるとき、あなたは宇宙だ。

あなたは ブラフマンだ。

 

 

  ◎⋯⋯第二の質問。おわり⋯⋯

  ◎⋯⋯第三の質問。へ つづく、

 

第6章 独存の痛み ◎⋯⋯第一の質問。

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 ◎⋯⋯第一の質問。

 

「独存の中で 自己に直面すると、大きな恐怖と苦痛を感じます。いったい どうしたらいいでしょうか」

 

 

  確かに 恐怖や苦痛を 感じるだろう。

でも その苦しみは必要だ。

それを避けようとしたり、気をそらそうとしたり、逃れようとしてはいけない。

それを苦しみ、それを通過するのだ。

この苦悩、この痛みは、いい兆候だ。

それは 新しい誕生に近づいているということだ。

  誕生には 必ず痛みが先行する。

それを避けるのは不可能だし、避けてはいけない。

それは成長の 一部だ。

この痛みや苦悩は、伝統的に タパスチャリヤ、「苦行」と呼ばれている。

タパスとは、骨折り、苦行、努力を 意味している。

 

  なぜ苦行が存在するのか。

これは理解する必要がある。

理解は 通過を助ける。

理解をもって通過すれば、たやすく、そして早く 通過できる。

 

  一人でいるとき、なぜ苦痛が存在するのか。

まず第一に、エゴが病む。

エゴが存在できるのは、他人がいればこそだ。

エゴは 関係性の中で成長してきた。

一人では存在できない。

エゴが もはや存在できないような状況では、エゴは窒息を 感じる------まさに 死の際にいるように感じる。

これは もっとも深い苦悩だ。

まるで自分が死にかけているかのようだ。

でも 死にかけているのは、あなたではなく、エゴの方だ。

あなた それを 自分と 取り違えている。

あなたは それと同化している。

エゴが 存在できなくなるのは、エゴが 他人に由来するからだ。

エゴは 与えられたものだ。

 

  他人を離れたら、あなたは もうエゴを持ち運ぶことができない。

こう考えてごらん。

たとえば、社会の中に いるとき、人々はあなたのことを 非常な善人だと考える。

この「善人性」は、あなたが一人でいるときには存在しない。

それは、あなたについての人々の考えだ。

ところが 今、その人々はいない。

もはや そのイメージを支える者はいない。

そのイメージは 根拠を失う。

少しずつそのイメージは 消え失せ、あなたは がっかりする。

今まで あんなに善人だったのに、もはや そうではない。

また、がっかりするのは善人ばかりでない。悪人もまた、他人から その名をもらっている。

それもまた他人の注意引く道のひとつだ。

多くの人々から悪人だと思われることは、それだけ人々の注意を引いているということだ------「あの男は無視できない。注意が必要だ。生半可ではない。悪人だ。危険だ」。

ところがその彼が 孤独の中に入ると、やはり 誰でもなくなる。

その悪いイメージが消え去る。

彼は そのイメージを栄養としてきた。

彼のエゴは そのイメージを栄養としてきた。

 

  だから悪人も善人も、根本的には違っていない。

どちらも 自分のエゴを養っている。

その筋道は 違うが、目的地は 同じだ。

悪人も他人に依存しているし、善人も同じだ。

どちらも社会の中に 存在している。

聖人と罪人のどちらも、社会の中に存在している。

 

  一人だったら 聖人でも罪人でもない。

孤独の中では、自分について 知っていることは、すべて 落ちる⋯⋯少しずつ消え去っていく。

少しの間なら、自分のエゴを保持することもできる。

想像力が あればだ。

でも、長期間はだめだ。

社会がなければ、あなたは 根無し状態だ。

養分を得ていた土壌が もはやない。

これが 根本的な苦痛だ。

 

  自分という個性が、消え去り、溶けてゆく。

もはや自分が 誰だかわからなくなる !  でもこれはいいことだ。

この偽りの自分が 消え去らないかぎり、真なるものは現れない。

あなたが すっかり洗われ、

再び きれいにならないかぎり、真なるものは現れない。

 

  この偽りのあなたが 玉座を占めている。

それを玉座から払い落とす必要がある。

孤独の中で暮らすことによって、偽りは すべて消え去る。

社会から 与えられたものは すべて偽りだ。

実際、与えられたものすべては 偽りだ。

自分とともに 生まれたものすべては 真だ。

他人に由来するのではなく、自分自身によって 自分であるものは、すべて真であり、本来的なものだ。

 

  だから偽りを捨てることだ。

ところが、偽りに対する投資は 相当のものだ。

今まで どのくらい投資してきたかわからない。

今まで それ に ずいぶん注ぎ込んできた。

あらゆる希望は それ にかかっている。

だから それ が 消え始めると、恐怖や おののきを感じる。

なぜなら それは 自分の生涯、その全体をすっかり壊してしまうことだからだ。

  きっと 恐怖を感じることだろう。

でも その恐怖を通り抜けることだ。

そうして 初めて無恐怖となる。

勇敢に なるのではなく、あくまでも無恐怖になる。

勇敢というのは 恐怖の一部だ。

いかに勇敢な人間であろうとも、恐怖は その裏に隠れている。

 

  私が言うのは 無恐怖だ。

べつに勇敢になるわけではない。

恐怖がなければ、勇敢になる必要はない------勇敢も恐怖も、ともに無用のものとなる。

両方は 表裏の関係にある。

だから勇敢な人間というのは、臆病な人間が 逆立ちをしているようなものだ。

まさに シルシアーサナだ。

 

  臆病な人間は、表面に恐怖があり、内側に勇敢さが隠れている。

勇敢な人間は、表面に勇敢さがあり、内側に恐怖が隠れている。

だから あなたは 一人でいたら すごく勇敢だ------何かを考えているときには すごく勇敢だ。

ところが 実際の状況に直面すると、恐怖にとらわれてしまう。

もっとも偉大な戦士もまた、前線に赴く前には、やはり恐怖にとらわれるそうだ。

  戦士もまた、内側で震えている。

でも 戦闘に赴く。

その震えを 無意識の中に押し込む。

内側で 震えていればいるほど、余計に「自分は勇敢だ」という外観を 作り出す------つまり 鎧を作り出す。

その鎧を見れば 勇敢にも見えるだろう。

だが その奥深くは恐怖でいっぱいだ。

人が 無恐怖になるのは、もっとも深い恐怖を 通過したときだけだ。

その恐怖とは、エゴの溶解であり、イメージの溶解であり、仮面の溶解だ。

 

  これは 死だ。

そこから新しい生が 出現するかどうか、あなたには わからない。

このプロセスの最中、あなたの知るものは 死だけだ。

偽りの存在者としての あなたが死んで初めて、その死が 不死への扉だったとわかる。

でも それは最後になってのことだ。

それまでは ただ死んでいくだけだ。

  今まで 大事にしてきたものすべてが 取り去られる。

自分の 仮面や、理想や、自分で美しいと思っていたすべてが 去っていく。

 

  あらゆるものが 剥(は)ぎ取られていく。

あなたは 丸裸にされる。

あらゆる役割や 着物が取り去られる。

このプロセスの最中には、きっと 恐怖を感じるだろう。

その恐怖は、基本的なもの、必須のもの、不可避なものだ。

必ず通過しないと いけない。

その恐怖を 理解することは大事だ、しかし避けようとしてはいけない。

逃げようとしてはいけない。

逃げれば 必ず 元に戻ってしまう------仮面に戻ってしまう。

 

  深い沈黙と孤独へ 入ろうとする人々は、いつも私に尋ねる、「恐怖が現れたら どうしたらいいでしょう」。

私は こう答える、「何もせず、ただ その恐怖を生きなさい」もし 震えがやってきたら、震えるのだ。

どうして それを邪魔する必要がある。

もし 内側で恐怖を感じ、そのせいで 震えるようだったら、震えればいい。

何もせず、その起こるがままにまかせる。

それは 自然に消えていく。

もし それを避けたら⋯⋯。

避けることは 可能だ、たとえば、「ラーマ、 ラーマ、ラーマ」と 唱えたり、何らかのマントラ(呪文)に しがみつけば、心(マインド)を そらすことも可能だ。

そうやって自分を 静めれば、恐怖はなくなる。

そうすると恐怖は 無意識の中に押し込まれる。

その恐怖は 外に現れようとしていた。

それは いいことだった。

もうじき あなたはその恐怖から解放されるところだった。

その恐怖は あなたから 離れようとしていた。

離れるとき、あなたは 震える。

それは 自然なことだ。

 

  体や 心の 全細胞の中に 今までずっと押し込まれていたエネルギーが、今、離れようとしている。

だから 震えや おののきがある。

それは ちょうど地震のようなものだ。

魂の全体が それによって動揺する。

そのままにしておけばいい。

  何も しては いけない。

  それが 私の 助言だ。

ラーマの名前を唱えることすら いけない。

何もしてはいけない。

何をしても 抑圧となるだけだ。

ひたすら あるがままにまかせる。

あるがままにまかせることによって、それは あなたを去る。

それが 去ってしまえば、あなたは まったくの別人だ。

 

  台風は去り、あなたは 中心を据える。

今までになかったほど、中心を据える。

「あるがままにまかせる」という 術(すべ)を知ることは、内側の扉を すべて開ける 親鍵(マスターキー)のひとつを知ることだ。

どんな場合でも、なりゆきにまかせる。

避けたりしない。

 

  三ヶ月間、まったくの孤独、まったくの沈黙を実行してみる。

何物とも闘わず、すべてを あるがままにまかせる。

そうすれば 三ヶ月のうちに、古いものは去り、新しいものが現れる。

その秘密は、あるがままにまかせるということだ。

いかに恐怖や苦痛に満ちていても、いかに危険に見えても、たとえ死のようであっても------。

きっと何度も、「何かしなければ気が狂う」と 思うだろう。

そして 自分でも意識せずに 何かを始めてしまう。

自分では「何もできない」と知っていても、どうしようもなく何かを始めてしまう。

  それは ちょうど、真夜中に、暗い夜道を歩いていくようなものだ。

誰も いないし、夜は 暗いし、見知らぬ道だし、それで恐くなる。

そこで 口笛を吹きだす。

口笛を吹いて いったいどうなる。

どうにもならないことは わかっている。

そこで 今度は 歌を歌いだす。

でも 歌ったところでどうにもならないことは わかっている。

闇を 追い払えるわけでもないし、自分は やはり一人ぽっちだ。

それでも心をそらすことはできる。

口笛を 吹くことによって、自信は回復し、闇を忘れてしまう。

心は 口笛の方に向かい、気分がよくなる。

  でも べつに何も起こっていない。

通りは 同じままだし、闇も 同じままだ。

もし危険が存在していたとしても、それも 同じままだ。

にも関わらず、何となく 安全になったように感じる。

すべては同じままだが、自分は何かしている。

また、何かを唱えたりする------名前とか、マントラとか、「ラーマ、ラーマ」とか。

それも 一種の口笛だ。

強さを もたらしてくれる。

でも その強さは 危険だ。

その強さは 再び障害となる。

その強さは やがて再びエゴとなる。

つまりエゴを 再び復活させることになる。

 

  だから 観照者となることだ。

そして 何であれ、起こることを起こるにまかせる。

恐怖に直面し、それを 超える。

苦悩に直面し、それを超越する。

あくまで真正に まっすぐ直面し、物事を あるがままに見つめれば、それは 早く起こる。

 

  それに時間が かかるのは、真正さが強烈でないからだ。

だから それは三日かかるかもしれないし、三ヶ月、もしくは三生かかるかもしれない。

それは 強烈さしだいだ。

実際、三分でも 充分だ。 三秒でもいい。

でも そのときには、途方もない地獄を 通過することになる⋯⋯自分でも耐えられないくらいの強烈さをもって 通過することになる。

何であれ自分自身の中に 隠れているものに直面できたら、それは過ぎ去る。

それが過ぎ去れば、あなたは 変わる。

その過ぎ去ったものは、かつて あなたの一部だった。

それが もはや存在しなくなる。

 

  だから、何をするべきか聞いてはいけない。

何もする必要はない。

何もせず、観照し、何であれ 在るものに対し無努力に直面する。

ほんの少しの努力でさえ しない。

ただ そのあるがままに まかせる。

ひたすら受動的になり、それが通過するにまかせる。

それは 常に通過する。

何かをしたら 台無しだ。

それは 干渉になる。

 

  いったい 誰が干渉するのか。

誰が 恐れているのか。

病気である 当のものが干渉するのだ。

置き去りにされるべき  当のエゴが 干渉するのだ。

「エゴは社会の一部だ」と 私は言った。

つまり あなたは、社会を去りながら、社会に由来する その一部を去りたくない。

その「一部」は 社会に根を張っている⋯⋯社会なしでは生きられない。

だから 二つにひとつだ------エゴを去るか、あるいは、新たな社会を作って、エゴが 生きられるようにするかだ。

 

  そこで あなたは代わりの社会を作る。

それはマインドによる この上ないトリックだ。

今まで つねにそうだった。

人は 別の社会を作る。

たとえば アシュラム(道場)を 作る。

「孤独の中に住むことこそ、自分の願いだ」と思い込んでいる人間が 二十人集まって、僧院を作る。

そういう僧院は 代用の社会にすぎない。

つまり、社会から外に出ながら、別の社会を作るということだ。

基本的には 何も変わっていない。

彼らは 同じままだ。

むしろ 逆に、前よりもっとエゴ的だったりする。

というのも、彼らは「選ばれた 少数者、 エリート」だからだ。

彼らは 社会を去りながら、別の世界を生みだしている。

その 人間関係のパターンは 同じままだ。

そこには 指導者がおり、弟子や導師がいる。

そして あらゆる序列や、その他すべてが出現する------縮小形で。

良い弟子がいて、悪い弟子がいて、優秀な者がいて、凡庸な者がいて⋯⋯すべては 同じだ。

小さな集団の中に 社会全体がある。

 

  これでは 無意味だ。

現在 西洋では、多数の若者が 社会を離れている。

彼らは こう感じている、「社会は腐り、退廃し、死にかかっている。もう変えようのないくらいひどい状態だ」。

これは 以前にはなかったことだ。

若者というものは つねに「社会は腐っている」と思っているが、それでも、「変えることはできる、変容はできる、だから革命が必要だ」と考えるものだ。

 

  ところが 社会や 文明の最終段階に至ると、人々は こんなふうに考え始める、「もはや どうしようもない。革命など 無意味だ。社会は死にきっている。だから生き返らすことは誰にもできない」。

そこで 社会からドロップ・アウトする。

  どうしようもない⋯⋯家が火事だ、だから逃げ出す。

これこそ、西洋で 起こっていることだ。

ヒッピーとか、ビート族とか、イッピーとか⋯⋯みな 社会からの離脱者だ。

でも そうした人々は、別の社会、代わりの社会を作り出す。

ヒッピーそれ自体が、一個の社会となっている。

 

  普通の社会では、長髪だと、「まともな人間ではない、どこかおかしい」と 思われる。

ところがヒッピーの社会では、髪が短いと、「あなたはおかしい、どうかしている」と 思われる。

いったい どこに違いがあるのか。

  普通の社会では、汚い格好を していると、あなたはおかしい、行儀が悪い、粗野だ、無教育だ、受け入れ難い、ということになる。

ところが ヒッピーの社会では、きれいな格好を していると、おかしく見られる------キミは まだ「清潔は神の次に大事だ」といった古い観念に しがみついている、神は ずっと前に死んだ、だから その次にくる清潔さも、もうすでに死んでいる、神あってこその 清潔さだ⋯⋯。

  そこには、同じような批判と称賛が ある。

代わりの社会を作りたかったら、規則(ルール)を ひっくりかえせばいい。

でも そこには 何の違いもない。

エゴは 再び養分を得る。

たんに 植え替えられただけだ。

土壌が 変わっただけだ。

 

  孤独になるということは、代わりの社会を作り出さないということだ。

ただ 社会を 離れ去る。

そうすれば、社会に由来するものすべては 去っていく。

それが存在できるのは、ひとつの 空気の中、社会的な空気の中だけだ。

その外に出たら 存在できない。

だから それを落とすのだ。

落とすのは 苦痛を伴うだろう。

あなたはまったく それに適応している。

すべてが うまい具合にいっている。

それに適応していれば じつに快適だ。

すべてが 便利にできている。

だから、一人になるということは、社会がもたらす あらゆる快適、あらゆる便利を去る ということだ。

 

  社会があなたに 何かを与えるということは、あなたから 何かを奪う ということでもある。

社会が 奪うもの、それはあなたの 自由であり、魂そのものだ。

つまり それは交換だ。

だから、もし 魂を純粋なままに 回復したいと思うなら、その取引を やめることだ。

それは きっと苦痛を伴う。

でも それを通過できたら、最高の至福は すぐそばだ。

社会は 孤独ほど苦痛ではない。

社会は 鎮静剤のようなものだ。

社会は 便利であり、快適だ。

社会は あなたに 一種の眠りを もたらす。

その外に 出たら、いろいろ不都合だ。

ありとあらゆる不都合が 現れる。

 

  そういう不都合は 孤独の一部であり、自己の回復の一部だ⋯⋯そういう理解をもって 不都合を忍ぶ。

これこそが タパス、つまり苦行だ。

それを 経れば、あなたは 新しくなる。

新しい栄光、新しい尊厳、新しい純粋さ、そして無垢を伴って、あなたは新しくなる。

 

 

  ◎⋯⋯第一の質問。 おわり⋯⋯

  ◎⋯⋯第二の質問。 へ つづく、

第5章⋯⋯第二の技法。

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 第二の技法。

 

『この空間を、自分自身の至福の体と考える』

 

  この技法も 最初の技法に関連している。

空間を自分自身の至福の体と考える。

山の上で、無限の空間を前にして瞑想しているときに、これを やってみるといい。

その空間が 自分の至福の体によって満たされていると考えてみる。

 

  体には七つある。

至福体は 最後の体だ。

だから 内側に入れば入るほど、「自分は至福に満ちている」と 感じられる。

内側に入ることは、至福体へ、至福の層へ向かうことだ。

至福体は、本源的な魂のまわりにある。

内側から数えれば 最初の体であり、外側から数えれば 最後の体だ。

至福の層は、あなたの存在、あなたの本源的な魂を包んでいる。

それで 至福体と呼ばれている。

 

  山上に座り、無限の空を見ながら、感じてみる------全空間が自分の至福体によって 満たされている⋯⋯自分の至福体が広がり、空間をすっかり充たしている、と。

どのようにして 感じるのか。

あなたは 至福というものを 知らない。

では どうやって想像するのか。

 

  こうするといい。

最初、空間が、至福によって ではなく、静寂によって満たされていると 感じてみる。

自然が その手助けをしてくれる。

なぜなら、自然の中では 雑音でさえ静かだからだ。

都市の中では、静寂でさえ 騒々しい。

自然の音は 静かだ。

耳に障ることがない。

調和している。

だから静寂は 必ずしも無音ではない。

たとえば、音楽的な音は静寂だ。

それは 調和的だからだ。

耳に障ることがない------むしろ静寂を深めてくれる。

 

  自然の中へ 入っていけば、吹くそよかぜや、沢や、川や、風など、そこにある すべての音が調和し、ひとつの全体を 形づくっている。

耳に障ることがない。

それに聴き入れば、その 聴き入ることによって、自らの静寂が 深まる。

だから まず、空間全体が 静寂によって満たされていると 感じてみる。

その静寂が ますます成長していくと 感じてみる。

自分のまわりで 空(そら)が 静寂になったと 感じてみる。

 

  空(そら)が 静寂になったと 感じたら、今度は 至福で満たされてみる。

静寂が 深まるにつれ、至福の 最初の一瞥が 現れる。

緊張が 高まるにつれ、苦悩の 最初の一瞥が現れる。

静寂が 深まるにつれ、安らぎやくつろぎが感じられ、至福の 最初の一瞥が現れる。

その至福が現れれば、全空間が その至福に満たされるという想像も できるようになる。

 

 『この空間を、自分自身の至福の体と考える』

 

  空全体が あなたの 至福体になる。

この技法は 別個にやることもできる。

必ずしも 最初の技法と組み合せる必要はない。

ただ 同じ条件は必要だ。

無限の空間、静寂、無人。

なぜ無人が ことさら必要とされるのか。

なぜなら、人間を見ると どうしても 旧来の仕方で反応してしまうからだ。

人間を見ると あなたは必ず反応する------たちまち自分に 何かが起こる。

その人間によって旧来のパターンに戻されてしまう。

 

  人間が 見えなければ、「自分は人間だ」ということも忘れてしまう。

「自分は人間だ」ということを忘れるのはいいことだ。

「自分はただ在る」と 想起するのはいいことだ。

自分が何なのか わからない⋯⋯自分は 誰のものでもなく、どの社会にも、どの集団にも、どの宗教にも属していない。

この 非所属性が 役に立つ。

 

  だから どこか一人になれるところへ行って、この技法を実践するといいだろう。

一人になれば、この技法は役に立つ。

ただ、始めるときには、すでに その感触を知っているものから始めることだ。

中には、何の感触も知らないのに やっている人々がいる。

もし 何の感触も知らなかったら、もし何の体験もなかったら、一瞥さえなかったら、それは まったく偽りとなる。

 

  こんなことを言いに来た人がいた、「私は『神は遍在する』を 実践しています」。

私は言った、「どうしてそれが実践できる。いったい何を想像するのか。いったい あなたは、神を感じたことがあるのか。その感覚がわかって初めて、想像するのも容易になる。さもないと、ただ『自分は想像している』と 考えているだけであって、何も起こりはしない」

 

  どんな技法をするにしても 同じだ。

まず 自分の馴染んでいるものから 始める。

完全に馴染んでいなくとも、少々知っていることは必要だ。

そうして 初めて前に進める。

一歩 一歩⋯⋯。

まったく知らないものに 飛び付いてはいけない。

そんなものは感じられないし、想像もできない。

それで 多くの導師たち、ことにブッダは、神という言葉を 完全に捨てたのだ

ブッダ いわく、「それは使えない。それは最後だ。最後を 最初に持ってきてはいけない。だから まず最初のものから始めなさい」。

いわく、「最後は 忘れなさい。最後は ひとりでにやってくる」

 

  彼は弟子たちに 言った、「神のことは考えずに、慈悲を考えなさい。愛を考えなさい」。

彼の 教えは、「神の遍在」を 感じることではなく、ただ、存在するもの すべてに対して 慈悲を感じることだった。

木々や、人間や、動物に対し、ただ慈悲を感じる。

思いやりを持ち、愛を生み出す。

愛だったら あなたも知っている⋯⋯いかに小さなものだとしても。

誰の生涯にも 愛のようなものはある。

たとえ 自分は 愛したことがなかったとしても、誰かに 愛されたことはあるだろう。

少なくとも 母親には。

あなたはきっと 母親の目を のぞきこんだことがあるだろう。

母親は あなたを愛していた。

 

 「存在に対して 母親のようになりなさい」、ブッダは言った、「そして深い慈愛を感じなさい。 全世界が自分の慈愛で満たされていると感じなさい。 そうすれば、ほかのすべては ひとりでに起こってくる」

  このことを基本法則として 覚えておく。

つねに 自分の感じられるものから 始める。

そうして 初めて、未知なるものが、それを通じて入ってくる。

 

 

  第5章⋯⋯自分という未知  おわり

 

   第6章   独存の痛み  へ つづく⋯⋯