saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第七章 「 平安に住する者 」 (11)

こういう話を聞いたことがある ーーー

四歳の女の子が、ベッドの中にくるまったあと、両手を合わせて 祈りはじめた

まちがって その女の子は 食事の時の祈りを 唱えはじめた

自分のしたことに気づくと、彼女は 大きな微笑みを浮かべて、頭を上げた

そして「今のは 取り消しね、 イエスさま」と言った

それから彼女は、おやすみなさいの祈りを 続けた

 

儀式は そのようなものだ

それは あなたのなかで 成長しない

それは ただ外側から 押しつけられているだけだ

あなたは 繰り返しつづけ、それは 機械的になる

 

仏陀は、幾つかのものが「流れ勝つ者」によって 落とされなければならない、と言う

一つは 自我(エゴ) だ

二つ目は たんなる規則や儀式で 生きることだ

三つ目は 疑い、惑いだ

 

疑うマインドは くつろぐことができない

疑うマインドは 明け渡すことができない

疑うマインドは けっして 全体的(トータル)であることができない

部分が 闘いつづけている

部分が「ノー」と 言いつづけている

疑い深いマインドは 完全な「イエス」を 言うことができない

これら三つのものが、流れ勝つ者によって 落とされなければならない

 

そしてこれが、流れ勝つ者になる 根本だ

つまり 生に イエスと言うこと、無条件に イエスと 言うこと

単純に、自分の全存在をもって イエスと言うことが ーーー

それで じゅうぶん祈りになる

ただ 静かに坐り、存在全体に イエス と言えたら、それで じゅうぶんだ

それ以上のものは 何もいらない

どんな 儀式も ーーー

 

 

それから 第二段階は「一度 還(かえ)って来る者」と呼ばれる

「一度 還って来る者」とは

死んで、もう一度生まれて来る者 という意味だ

彼は 貪欲、官能、悪意を 捨てなければならない

しかし、彼は もう一度来る

 

第三段階は「けっして 還(かえ)って来ない者」と 呼ばれる

二度と 生まれて来ない者だ

彼は、生への渇望、来世への渇望、在ることへの渇望を 捨てなければならない

そして第四段階は アルハットの状態と呼ばれる

いない者、誰でもない者、〈無〉ーーー

彼は ブッダになった

 

仏陀は、スブーティに これらの 四つについて訊ねた

彼は 問う

 

“ 流れ勝つ者にこういう考えが起こるだろうか

『私によって流れ勝つ者という成果が達成された』”

 

単純な質問だ

だが きわめて意味深い

 

 “ スブーティは答えた

『断じて否です

 おお世尊よ

 何故でしょうか ?

 おお世尊よ

 彼はいかなる法も勝ち取ったのではないからです』”

 

もし「私は 明け渡しました」と 言ったら

そのときには あなたは まだ明け渡していない

というのも、どうやって あ な た が 明け渡せる ?

あ な た が 明け渡されなければ ならない

「私」が 明け渡されなければ ならない

あなたは「私は明け渡しました」と 言うことはできない

もしそれが何かあなたの 行為なら、そのときには それは 明け渡し(サレンダー) ではない

 

人々は 私のところへ やって来て訊ねる

「どうすれば 私たちはあなたに 明け渡すことができるのでしょう ?」

 そして 私は言う

「あなたはできない

 “あ な た” が 明け渡し(サレンダー)の 障害だ

 “あ な た” は 邪魔にならないように どきなさい

 そうすれば 明け渡しが ある」

 

明け渡し(サレンダー)は、為されるべきものでも 為しうるものでもない

それは 行為ではない

明け渡し とは 理 解 だ

 

 

(11)終わり・・・(12)ヘ 続く