saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第七章 「 平安に住する者 」 (08)

聖フランシスは 覚者(ブッダ) だ

ブッダの性格は ふつうである ということだ

「いかにあるべきか」という 自分自身についての観念を 全然もっていない ことだ

ただ 無為自然である ということだ

何ごとであれ 起こるものが 起こる ということだ

彼は 瞬間にまかせて 生きる

それが 彼の真正さだ

 

それを 彼の性格 と呼ぶことはできる

だが それはいったい どういう種類の性格だろう ? 

 

それは たんに 彼はどんな性格も 持っていない ということだ

彼は身のまわりに 性格という拘束服を いっさい持っていないということだ

彼は 鎧かぶとを いっさい持っていないということだ

彼は過去からは 生きないということだ

彼は「キリスト教の威厳」など 知らないということだ

彼は、幼な児のように、瞬間に生きる ということだ

 

「そうだ スブーティよ

 なぜなら如来がこう説いているからだ

『覚者(ブッダ)たちに特別な法(ダルマ)は

まさに覚者(ブッダ)の特別な法(ダルマ)ではない』

だから それは『覚者(ブッダ)たちに特別な法(ダルマ)』と呼ばれる」

 

ふつうであることが 彼の ふつうでないことだ

誰でもないことが、誰かであることだ

不在(アブセンス)が 彼の現前(プレゼンス)だ

死が 彼の 生だ

 

“ 世尊は問われた

「どう思うか スブーティよ

 流れ勝つ者にこういう考えが起こるだろうか ?

『私によって流れ勝つ者という成果が達成された』」

 

 スブーティは答えた

「断じて否です

 おお世尊よ

 何故でしょうか ?

 おお世尊よ

 彼はいかなる法も勝ち取ったのではないからです

 だからこそ彼は『流れ勝つ者』と呼ばれるのです

 いかなる視覚の対象も

 いかなる音声も 香りも 味も 触れうるものも

 心(マインド)の対象も勝ち取られてはいません

 だからこそ彼は『流れ勝つ者』と呼ばれるのです

 もし おお世尊よ

 流れ勝つ者に

『私によって流れ勝つ者の成果が達成された』という考えが起きたら

 そのときには 彼のなかには

 自己の把握

 存在の把握

 魂の把握

 個人の把握があることになりましょう」

 

仏陀は、求道者の四つの段階について 語ったことがある

その第一を彼は、流れ勝つ者(流れを勝ち得た者)と 呼ぶ

流れ勝つ者とは

ブッダフィールドのなかに入った者

入門者に なった者、サニヤシンに なった者 という意味だ

 

なぜ彼は、 流れ勝つ者(ストリームウイナー)と 呼ばれるのか ?

それは 彼がもう 岸の上には立っていない からだ

彼がもう固定せず、生という流れと共に 動きはじめたからだ

彼はもう 河と 闘っていない

かつて 河と闘っていた自我(エゴ)、流れを 遡っていた自我(エゴ)は もうそこにない

 

さあ、またあなたは これは ばかげている と 感じる

流れが 勝った、だから彼は「流れを勝ち得た者」と 呼ばれる

彼は いっさいの 争いを放棄した

彼は 明け渡した、だから 彼は勝利した

だから彼は 流れ勝つ者 と 呼ばれる

ーーー 不思議な 言葉だ

 

最初、彼は 流れに勝とうと していた

これは世の中の人 すべてが やっていることだ

自分自身の 欲望、計画、投影に従って 生を得ようとすること

自分の夢や 欲望の型を 生に 押しつけようとすることはーーー

誰もが 流れを 遡ろうとしている

誰もが、生、自然、神と闘おうとしている

ふつうの人生は 葛藤の人生だ

 

しかし 誰と 闘っているのか ?

あなたは あなた自身の 本源と闘っている

誰と 闘っているのか ?

あなた自身と だ

その闘いは あなたを ますます深い失望ヘと 導く

なぜなら あなたは勝てないからだ、それは 勝つ方法ではないからだ

あなたは 負ける

あなたは 小さな 一部分でしかなく、存在全体は 広大で、巨大だからだ

あなたは それに対して 勝つことは できない

あなたが勝てるのは それ と共に 在るときだけだ

あなたは それに 対 し て 勝つことはできない

あなたは それを 通 し て のみ 勝つことができる

もし それ が 支えてくれたら、あなたは勝つことが できる

もし支えなければ、信じつづけることは できるが、あなたは 負ける

それは ただ 時間の問題だ

遅かれ早かれ あなたは 闘いに疲れ、失望し、疲れ果てる

そうなったら、あなたは 落ちる

だがそうなったら、あなたは 負けて落ちる

そして その敗北のなかには なんの喜びもない

どうやって敗北のなかに 喜びがありえよう ?

 

理解の人々は、敗北がくる前に 明け渡すことができたら、喜びが あることを知る

 

明け渡しと 敗北は、非常に 似ていて、非常に 違う

負けた者は 明け渡したようにみえるし、明け渡した者は 負けたようにみえる

だがそれは 見かけのこと、表面のことに すぎない

奥深いところでは その二つは 別々の世界だ

負けた者は 腹がたち、猛烈に怒り、欲求不満になる

彼は 地獄の なかにいる

明け渡した者、身をまかせた者は 少しも惨めではない

彼は 意気盛んで、歓喜に満ちている

彼は 理解した

闘いは すべて無意味だ ということを

闘いは すべて失敗する運命にある、失敗するさだめである ということを ーーー

 

それは 私の左手が 右手と闘いはじめるようなものだ

それは 私の指が 私の体と闘いはじめるようなものだ

どうやって それらが 勝つことができる ?

 

 

(08)終わり・・・(09)ヘ 続く