saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第七章 「 平安に住する者 」 (07)

(…彼は キリスト教の聖者たちのなかで 唯一の 禅のマスターだ

彼は「キリスト教の威厳」など 少しも 気にかけなかった )

さて、 何が 起こったのか ?

この修道士エリヤは、人々に 聖フランシスは 聖者だと証明したい

そこで彼は、人々が フランシスは 聖者ではない と 思うのではないかと おそれている

人々は彼を 狂人か何かだと 思うかもしれない

聖者は、その定義からして 悲しくなければ ならない

キリスト教徒たちは 愁い顔の聖者だけを 信じる

彼らは イエスが 笑ったことがあるとは 信じられない

それは「キリスト教の威厳」以下だ

笑い ? ーーー そんなに 人間的な、そんなに 月並みなもの ?

 

彼らは ただ ひとつのことしか 知らない

エスを 人間より 高いところに置く ということだ

だが そうなったら、彼から 人間的なものは すべて取り去られなければならない

そうなったら、彼は ただ死んだ、血の通わないものになる

この修道士(ブラザー) エリヤは 気をもんでいる

これは 最期の瞬間だ、フランシスは 死につつある

そして 彼は 後に悪い評判を 残すだろう

人々は 彼が聖者ではなかったか 気違いだったかの いずれかだ と思うだろう

彼が心配しているのは 証明したいからだ・・・

 

実際のところ、 彼は 聖フランシスのことを 心配しているのではない

彼が心配しているのは 自分自身と 教団のことだ

「これは あとで実に みっともないことになる

どうやって、こう問う人々に答えたらいいのだろう ?

『あの臨終の時は いったいどうしたのか ?』」

彼は 自分自身のことを 心配している

もしマスターが 気違いなら、その弟子は いったいどうなる ? 

彼は 弟子なのだ

 

しかし 二つの異なる位相、二つの異なる次元を 共に見なさい

エリヤは 公的な意見に かかずらっている

彼は 自分のマスターが、最高のマスター、最高の聖者であることを 証明したい

そして彼は それを証明するすべを ひとつしか知らない

それは フランシスは深刻であるべきだ ということだ

彼は 生を深刻に 受けとるべきだ ということだ

彼は 笑ったり、歌ったり、踊ったりすべきではない ということだ

そういうことは 人間的すぎる、ふつうすぎる

凡人には 許されるが、聖フランシスのような 高徳の士には 許されないことだ

 

しかし 聖フランシスは ちがうヴィジョンを 持っている

彼は ただ ふつうで いる

彼は言う

「どうか許しておくれ、 ブラザー

しかし

私は ほんとうに、自分では どうすることもできないほどの喜びを胸(ハート)に 感じている

私は 歌わずにはいられない !」

 

実際のところ

歌っているのは フランシスではない、フランシスが 歌になったのだ

だから彼は どうにも仕方がなく、自制することが できない

それを 制御する者は 残っていない

 

その歌が 起こっているとしたら、それは 起こっている

それは 制御できる状態にはない

それは ありえない

なぜなら 制御する者が 消えているからだ

自己(セルフ)、自我(エゴ) は もう存在していない

聖フランシスは 個人としては 存在していない

内側には 絶対的な沈黙 だけがある

その〈沈黙〉から この歌が 生まれる

フランシスに 何が できよう ?

だから 彼は

「私には どうすることもできない、私は 歌わずにはいられない !」と言うのだ

 

そして彼は 歌いながら死んだ

それより良い死に方は ありえない

もし歌いながら 死ねたら

それは、あなたが 歌いながら生きた ということを

あなたの生は 喜びであったということを

そして死が そのクレッシェンド、その極致になった ということを 証明している

 

聖フランシスは 覚者(ブッダ)だ

 

 

(07)終わり・・・(08)ヘ 続く