saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第七章 「 平安に住する者 」 (06)

(…誰が リチャード・ニクソンのことを 気にかける ?

彼が 生きているか 死んでいるか、誰が 心配などする ? )

彼が死んで はじめて彼のことが わかる

そうなったら、新聞は 彼について 何か書かなければならない

そのとき、突然あなたは 知る

「そうすると、彼は 生きていたのか ?」

権力を失った政治家のことを 誰が気にかけよう ?

だが権力の座にあるときは 人々は注目を払う

彼らは 権力に 注目を払っている

しかし、政治家は その注目が 自分に向けられている と 思う

政治家とは、愛を求めていながら、 愛すことも愛されることも できなかった者だ

その探求は 愛に向かっている

が、とても微妙な変化をして、向きを変えた

いまや、それは注目を求める 探求になった

彼は毎日、新聞のなかに 自分の写真を見たい

一日でも 自分の写真が新聞に出ていなかったら、彼は 無視された と 感じる

 

彼は 愛への願望を満たそうと しているのだが、その方法では 満たされえない

愛は、 それが起こるときは いつであれ、影のように注目を伴う

だが、注目は 愛をもたらさない

注目は さまざまな かたちで入ってくる

あなたは 何か危害を創り出すことができるし、そうすれば 人々は あなたに注目を払う

だから、 政治家が 必要とするものと 犯罪者が 必要とするものは 同じだ

 

犯罪者も 同じものを 欲しがっている

それは 注目だ

彼は 人殺しをする

そうすれば 彼の写真が 新聞にのり、名前がラジオで放送され、テレビにも出る

彼は 気分がいい

いまや、誰もが 彼が何者であるかを 知っている

いまや、誰もが 彼のことについて、彼が世の中で有名になったことについて、考えている

名声の人も 悪名の人も、両方とも同じものを 求めている

 

仏陀は 絶対的な愛だ

彼は 存在全体を愛し、存在全体も 彼を愛した

これがサマーディの 何たるかだ

〈全体〉と オーガズミックな関係にある ということがーーー

彼は 全体的(トータル)な オーガズムを 知った

肉体的、精神的なオーガズムではなく、全体的な オーガズムだ

部分的なものではない

彼は そのエクスタシーを 知るに至った

いまや、まったく誰からも 注目を求める 必要はない

 

仏陀が 道で通り過ぎても、あなたは彼に 気づくことができない

あなたは 政治家や 犯罪者や そういうたぐいの人たちにしか 気づかない

あなたは 道の上で 狂人に気づくことは できる

彼は 危害を加えるからだ

が、あなたは 仏陀には気づかない

仏陀は、囁きもせずに、ごく静かに 通り過ぎる

 

これが 彼の 主要な性格だ

あたかも 存在しないかのように存在する ということが ーーー

だが「いないかのように いる」ことが主要な性格だとしたら、彼には どんな性格も ない

 

それが、仏陀が こう言うときの意味だ

「そうだ スブーティよ

 なぜなら如来はこう説いているからだ

『覚者(ブッダ)たちに特別な法(ダルマ)は

 まさに覚者(ブッダ)の特別な法(ダルマ)』と呼ばれる」

 

覚者(ブッダ)の非凡さ は 完全な平凡さだ

彼の平凡さが 彼の非凡さだ

ふつうであることは、この世で 最もふつうでないことだ

 

つい先日の 夜

私は、覚者(ブッダ)、聖フランシスに関する 実に美しい物語に出会った

 

アッシジの聖フランシスが 死の床に ついていた

彼は 歌っていた

あまり 声高らかに 歌っていたので、隣近所 みんなが 気づいたほどだった

フランシス修道会の主要なメンバーのひとりである 修道士(ブラザー)エリヤが 聖フランシスに言った

「父よ、窓の 外の通りには 人々が立っています」

大勢の人たちが 来ていた

フランシスの最期の時が 来たのを心配して

彼を愛する 多くの人々が 家の廻りに 集まっていた

この修道士エリヤは、言った

「私たちが何をしようとも

彼らに、あなたが歌っているのを聴かせないようにすることはできないでしょう

このような厳粛な時に 慎みを欠くことは、修道会の恥になります

父よ

それは あなたご自身が立派に 保持されておられる尊敬を 低めることにもなります

たぶん、最期の時になって

あなたを聖者とみなして集まって来た人々への責任を 見失ったのでしょう

もっとキリスト教的な威厳をもって、そのう、亡くなられたら・・・

そのほうが彼らを 教化することになるのではないでしょうか ?」

 

「どうか 許しておくれ、 ブラザー」

聖フランシスは 言った

「しかし私は

胸(ハート) に 大きな喜びを 感じるあまり、ほんとうに 自分では どうすることも できないのだ

私は 歌わずには いられない !」

 

そして彼は 歌いながら 死んだ

キリスト教史の なかで、彼は 歌いながら死んだ 唯一の人だ

多くの 禅の人々が 歌いながら死んだが、彼らは キリスト教には属してはいない

彼は キリスト教の聖者たちのなかで 唯一の 禅のマスターだ

彼は「キリスト教の威厳」など 少しも 気にかけなかった

 

 

(06)終わり・・・(07)ヘ 続く