saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第六章 「 第三の 質問 」 (02)

(…肉食者も光明を得ることが できる
ちょうど詩人でない人たちでも 光明を得ることができるようにーーー
それは障害ではない
美の感覚がない人たち、バラの美しさが わからない人たちでも 光明を得ることはできる )


月の美しさが わからない人たちも 光明を得ることはできる
ベートーベンの音楽の味を知らない人たちも 光明を得ることができる・・・

しかし、イエスには 何か 粗雑なものがある
それは 不可能だったのかもしれない
肉食者たちばかりのなかで 生きていたのかもしれない
彼が 菜食者になるのは 難しかったことだろう
それは彼にとって 不可能に近かったことだろう
だが それでもなお、その困難は担われなければならない

憶えておきなさい
ここでの私の 全アプローチは 統合的なアプローチだということをーーー

瞑想は 必要だ
詩情も そうだ
美学も そうだ
宗教も そうだ
音楽も そうだ
芸術も そうだ
人は 統合的に多くの次元のなかを 進化してゆかなければならない

そうすれば、あなたの花弁が 一枚残らず開く 究極の開花のときが来る

そしてあなたは 生のより大きな歓喜、より大きな祝福を 得る


聖フランシスは イエスより審美的だった
当時、聖フランシスについて
小鳥が よく彼の肩に とまりに来たとか
魚が 川から飛び上がって 彼を見た とかいう物語がある

彼は動物の世界に 一種の親和力をもっていた
彼は よく木々に「姉妹よ」と 語りかけ、小鳥たちに「兄弟よ」と語りかけた
太陽や 月に対しても そうだった

エスには それは起こらなかった

マホメットには それは起こらなかった
それは 起こりえない


それでもなお 私は、彼らは 光明を得た人たちだ と言う
しかし彼らの〈光明〉には ひとつのものが 欠けている
それは 美的感覚だ

なぜ それを見のがすのか ?

なぜ その全体を得ないのか ?

なぜ 可能な あらゆる方法でーーーあなたの全体性でーーー光明を 得ないのか ?



(第三の質問)終わり・・・第四の質問へ 続く