saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第六章 「 第三の 質問 」 (01)

第三の質問「なぜあなたは、非菜食の食物を アシュラムの中で許可しないのですか ? 」



この質問は スワミ・ヨーガ・チンマヤ からだ

チンマヤの マインドのなかには 肉を食べる という観念があるにちがいない
ある 深く秘められた暴力が あるにちがいない
さもなければ この質問は 菜食主義者(ベジタリアン)から きている
そして ここには何千人という 非菜食主義者(ノン・ベジタリアン)が いる

これは実に ばかげてみえるが、これが物事の あり方なのだ
菜食主義者」は 真の菜食主義者ではない
彼は ただ抑圧された者に すぎない
欲望は 湧き出てくる

だが、私が アシュラム内で 非菜食の食物を許可しないのは 宗教とは なんの関係もない

それは ただ 純粋な美学だ

私は、非菜食の食物を摂ったら あなたは光明を得ない、と 考える者ではない
エスは 光明を得た
マホメットは 光明を得た
ラーマクリシュナは 光明を得た
それについては なんの問題も ない

あなたが 非菜食の食物を摂っていて 光明を得ることは可能だ
だから それについて宗教的な問題は 何もない


私にとって問題は 美学的なものだ
エスは肉食を 続けたから
彼は あまり秀れた美的感覚を もっていなかったのではないか と感じている

彼が宗教的でなかったというのではない
彼は まったく宗教的だ、仏陀と同じほどに 宗教的だ

しかし、彼のなかには 何かが欠けている

ラーマクリシュナは 魚を食べつづけた
それは ただ美しくない
それはちょっと 醜くみえる


〈光明〉がそれにかかっている というのではない
だがあなたの詩情が かかっている
あなたの 美の感覚が かかっている
人間性が ではなく、人間性が かかっている

だから私のアシュラムでは それが許されない
そして これからも許されない
それは 美の問題だ


これを理解したら、多くのことが あなたに明らかになる

アルコールは このアシュラムでは許可されるが、肉は だめだ
なぜなら、アルコールは 菜食的なものだからだ
フルーツ・ジュースーーー
醗酵されてはいるが、それは フルーツ・ジュースだ
ときとして ほろ酔いは 大いなる詩情を湧き上がらせる
それはありうる
それは許されて しかるべきだ
新しいコミューンにおいて、私たちは「オマール・ハイヤーム」という酒場をつくるだろう
オマール・ハイヤームは スーフィの聖者、光明を得たスーフィたちの 一人だ


しかし、肉は 許されない
それは ただ醜い
あなたが食べるために 動物を殺していることを ちょっと考えてごらん
まさに その観念自体が 美しいものではない
私は動物が殺されるからといって それに反対しているのではない
なぜなら、その動物の中にある本質的なものは 生きつづけるからだ

それは殺されえない
非本質的なものは、あなたがそれを殺そうと殺すまいと、かならず死ぬ
だから それは筋ちがいだ
それは 私が考慮している要点ではない

問題は 動物を殺した ということではない
そして 殺すことがよくない ということではない
ちがう
問題は あ な た が 動物を殺してしまった ということだ
あ な た が ーーー
ただ 食べるために ?

おいしい菜食の 食物が手に入る というのに ?

菜食用の食物が 手に入らないのなら 話はべつだ
しかし、その食物は 手に入る
ではなぜ ?

ではなぜ肉体を破壊する ?

そして動物を殺すことができるのなら、なぜ人食い人種にならない ?

人を殺すことの どこがまちがっている ?

人体からとった肉の方が もっとあなたに 合うはずだ
なぜ人間を 食べはじめない ?
それもまた 美学の問題だ

そして動物たちは 私たちの兄弟、姉妹だ
なぜなら、人間は 彼らから来たからだ

彼らは 私たちの 家族だ
人間を殺す ということは ただ 進化した動物を殺す ということだ
動物を殺す ということは、未だ進化していないが その途上にある人間を殺すことだ
それは 同じだ
一年生の子供を殺そうと 大学四年生の青年を殺そうと、それは たいしたちがいではない
動物は人類に向かう 途上にあり、人類は かつて動物だった


それは ただ美学上の 問題だ
なぜあなたの妻を殺して 食べないのか ?
彼女は とても美しく、とても甘美だ・・・


一人の友達が 人食い人種の所へ訪ねてきた
食事が用意されたが、その友達は 一度も そのようなものを 味わったことが なかった
彼は 食事がこれほど美味で おいしいものに なりうるとは 夢にも思ったことがなかった
いとまごいをするとき、彼は 人食い氏に 言った
「ああ、おいしかった
僕は これほど食物を おいしく思ったことはないよ
今度来るときも、同じ料理を用意しといてくれたまえ」
すると その人食い氏いわく
「それは むつかしいよ
だって僕には お母さんは一人しかいなかったんだもの」

なぜ あなたは 自分の母親を食べられない ?
なぜ あなたは 自分の夫や子供を食べられない ?
とてもおいしいのにーーー

問題は 宗教的なものではない
もう一度 想い起こしてほしい
それは 美学なのだ
審美的な人は 生が美しいままであるのを 見る
それは醜く、悪夢のようなものには ならない

しかし、チンマヤの マインドには この質問が 湧き上がった
それは 何かを示している

インドでは 菜食主義者たちは ほんとうは菜食主義者ではない
それは ただ彼らが菜食の家庭に 生まれたからにすぎない

だから、始めから彼らに菜食主義が 押しつけられてきた
当然、彼らには好奇心があって、ほかのものも味わってみたい
そして当然 こういう考えが起こってくる

「全世界が 非菜食だ。みんな楽しんでいるにちがいない」

菜食主義者は なんとなく自分は多くのものを失っていると 感じる
だから こういう質問が出てくるのだ


それは 瞑想とは なんの関係もない
肉食をしていても 瞑想することはできる
肉食をしていても 愛することはできる
それは 愛とも なんの関係もない
しかし、あなたは自分自身について あることを示している
あなたが とても粗雑である ということ
あなたがとても原始的で、非文化的で、野蛮だ ということ
あなたが 生はどうあるべきか という感覚を まったく持っていない ということをーーー

菜食主義者が生まれたのは 美的感覚からだ
それが宗教に巻き込まれて、道に迷った
それは ずっと宗教的文脈から引き合いに出されてきた

人々が 私に会いに来ては 訊ねる
一人の ジャイナ教徒が こう訊ねた
「あなたは いったいどうしてイエスが光明を得ていたと 言えるのです ?
彼は肉食者だった というのにーーー ? 」

彼の質問が適切なのは彼が 肉食者は光明を得られないと 思っているからだ

肉食者も光明を得ることが できる
ちょうど詩人でない人たちでも 光明を得ることができるようにーーー

それは障害ではない
美の感覚がない人たち、バラの美しさが わからない人たちでも 光明を得ることはできる



(01)終わり・・・(02)ヘ 続く