saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第2章(質疑応答)「トータルであることは至福だ」(07)

最初の質問

(07)

 

(…なのに、彼らは もっと純真な あり方で 生きている。

彼らは それほど苦しまない。

そうした理由で、多くの誤解が 思想家たち、哲学者たちに 生じた )

 

たとえば、ルソーや トルストイガンジーという人たち。

彼らは、そういう村人たちが、近代社会に生きる人々より 幸せな状態だとして、こう考えた。

全世界が 文明化されていない状態に戻り、ジャングルに戻り、森に帰り、自然に戻ればいいだろう、 と。

だが、彼らの考えは 間違っている。

なぜなら、文明化された町に生きてきた人は、村では 苦しむことになるからだ。

村の生活で苦しむ村人は、誰もいない。

 

ルソーは、自然に還る ということを話し続けた。

その一方で、彼は パリに ずっと住んでいた。

彼自身は、村に住むつもりは なかった。

彼は 村の生活の 詩的なこと、すばらしさ、素朴さについて 語っていた。

だが、彼自身は 一度も村に行かなかった。

もし村へ行けば、村人にない苦しみを味わうことになると、わかっていた。

 

一度、意識を持ったら、それは捨てられないからだ。

それは あなた なのだ ! 

あなたが捨てられるような何かではない。

それは あなた自身だ ! 

どうして 自分を捨てられるだろう。

あなたの 意識 が、あなた なのだ。

 

アダムは 羞恥心ゆえに 苦しんだ。

彼は 裸であることを 感じた。 エゴとは論理だ。

アダムは 一つの中心を 手にした。

だが、 それは 偽物だった。 それでも それは中心だった。

もはや、アダムは 全宇宙とは 分離していた。

木々は そこにあり、星々は そこにあり、すべては そこにあった。

が、アダムは 離れ孤島として 苦しんでいた。

その時、彼の生は 彼のものではあったが、全宇宙の 一部ではなかった。

 

そして、生があなたのものになった時、生の中に戦いが入ってくる。

生きるために、生存競争に打ち勝つために、一寸刻みに戦わねばならない。

 

動物は、戦う姿勢にない。

たとえ 我々にとって 彼らが 戦っているように見えても、

あるいは、ダーウィンにとって 戦っているように見えても、彼らは 戦っているのではない。

ダーウィンにとって、動物が戦っているように 見えるのは、我々の考えを投影しているからだ。

動物が 戦う姿勢をとるのは あり得ない。

そう見えるのは、我々にとって、あらゆることが 戦いだ からだ。

 

エゴ という観念から生きていれば、すべてが戦いになる。

動物たちは、生きるために 戦っているように見える。

だが、そうではない。

動物は 宇宙の、 調和の中を流れている。

たとえ、彼らが 何かをしていても、その背後に やり手は 存在しない。 それは 一つの自然現象だ。

もしライオンが 自分の餌として ある動物を殺して食べていても、そこに 行為者は いない。 暴力は 存在しない。

それは 単純な現象だ −−− 飢えから 餌を追い求めるという。

そこには 飢えている者 は 存在せず、飢え が あるだけだ −−− 餌を求める メカニズム が あるだけで、暴力が あるのではない。

 

人間のみが 暴力的で あり得る。

人間のみが、行為者 だ からだ。

人間は 飢えてもいないのに、ほかの生物を 殺すことが できる。

 

だがライオンは、飢えてもいないのに 他の生物を殺すことは 決して あり得ない。

 

ライオンの 中の 飢えが 他の生物を 殺すのであり、ライオンが 殺すわけではない。

ライオンが、遊びで他の生物を殺すことは 決してあり得ない。

ライオンには、人間の するような狩りは、何ひとつ 存在しない。

 

それは人間だけに 存在する。

人間は 遊びで、 ただ自分たちの 楽しみのために、ほかの生物を 殺せる。

 

もしライオンが お腹いっぱいなら、暴力も 遊びも ゲームも、何もない。

ライオンが 他の生物を殺すのは、飢え という現象が あるからだ。

 

 

 

(07)終わり(08)へ 続く