saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第2章(質疑応答)「トータルであることは至福だ」(01)


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最初の質問(01)

 

質問・・・・・・

 OSHO、アダムとイブが 知恵の木の実を食べた後、初めて 自分たちが裸であることを意識し、恥ずかしさを感じるようになったそうですが、その恥ずかしい という感覚の背後にある より深い意味は、いったい何でしょうか ? 

 そして第二に、食べることを禁じられた 知恵の実とは、セックスに関する知識だそうですが、あなたの 見解は いかがでしょうか ? 

 

 

 本能 それ自体は、無垢なるものだ。

だが、人間が それを 意識するようになると、多くの問題が 持ち上がってくる。

自然なるもの、無垢なるものを 人間が解釈してしまうのだ。

 

解釈されてしまうと、もう それは 自然でもなければ 無垢でもなくなる。 本能それ自体は 無垢だ。

だが、意識するようになったとき、人間は 解釈を始めた。

 

そして、まさに その解釈が 罪悪感、 罪、 道徳、 不道徳 というような 数多くの観念を 作り始めた。

 

アダムとイブの 物語では

「知恵の実を食べた時、初めて自分たちが裸であることを意識するようになり、恥ずかしさを感じた」と 言っている。

彼らは 裸だった。

だが、 彼らは 意識していなかった。

その 意識、 意識 そのものが ギャップを作り出した。

 

何かを 意識した瞬間、あなたは 判断し始める。

すると、 判断した もの と あなたは 別々になる。

 

たとえば、 アダムは 裸だった。

誰もが アダムのように 裸で 生まれてくる。

だが、 子供は 自分が裸であることを 意識していない。

彼らは 判断できない −−− それが 良いか悪いか。

彼らは 意識的でないから、判断できない。

 

アダムが、自分は裸だ と 意識するようになった時、裸であることが 良いか 悪いかと、分別する意識が 入り込んだ。

 

あらゆる動物、彼の 周囲 すべてが 裸だった。

だが、自分が裸だと 意識している動物は いない。

アダムは 意識するようになった。

そして その意識と ともにアダムは 特別な存在になった。

 

そうなると、裸で いるのは 動物のようだと意味するようになった。

そして、 もちろんアダムは、動物のようではありたくなかった。

 

動物のようで ありたい人間は いない。

にも関わらず、あらゆる人間が 動物の ようだ。

初めてダーウィン

「人間は進化してきた、ある種の動物から 進化してきた、」と 言った時、猛烈な 反対にあった。

人間は 自分のことを 神の子孫だと 考え続けてきたからだ −−− 天使より、 ほんの少しだけ 低い位置にある と。

 

類人猿を 人間の父と 考えることは、とても難しかった −−− ある意味で 不可能だった。

 

神が ずっと人間の父だった。 ところが、突然 ダーウィンは ひっくり返してしまった。

神は 王座を 追われ、尾なし猿が とって変わった。

尾なし猿が 人間の父に なった。

 

ダーウィンは 宗教的な人物だったので、彼でさえ そのことに やましさを感じていた。

人間が動物から進化してきたこと、人間が 動物界の 一員であること、人間は動物と 何ら差異のないものだ という事実を 公言することは、一つの 不運だった。

 

アダムは 自分が裸であることを 恥ずかしく感じた。

その 恥ずかしい という感覚は、そのとき、彼が 動物と自分を 較べられるように なったから、やって来た。

ある意味で もはや 彼は 動物と違っていた。

なぜなら、意識するようになったからだ。

 

 

 

(01)終わり(02)へ 続く