saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第三章 「 ダンマの車輪 」 (11)

(…何かを証明する ということは、あなたはまだ達成していないことを 証明するだけだ
彼は 弁護的ではない

それら外側の相(マーク)は、ブッダでないかもしれない人たちによって創り出されうる
何でも創り出されうる )

たとえば、仏陀の呼吸は まったく息をしていないかのように 静かだ
しかし、それは ブッダではない ヨーガ行者でもできる
あなたは 呼吸法を練習することはできる
あなたは さまざまな訓練を 練習することはできる
そして 息を 停止点に近いところまでもってゆくことはできる
あなたは ブッダを 打ち負かすことができる

彼の呼吸が ゆったりしているのは、彼自身が ゆったりとしたからだ
何か 呼吸訓練を やったからではない
彼の呼吸が ゆったりしているのは、どこへも行こうとしていないからだ
あらゆる欲望は 消え去ったからだ
だからこそ彼の呼吸は ゆっくりしていて、ほとんど目には見えない

その理由は 彼が 大ヨーガ行者だからではない
ちがう、その理由は、欲望が落ちて、もう急いでいないからだ
彼はただ「朝の散歩」を しているだけだ
彼は どこへも行こうとしていない
彼には 未来も 心配も いっさい ない


観察したことがあるだろうか ?

心配しているとき、あなたの呼吸は 乱れる
怒っているとき、あなたの呼吸は 荒々しくなる
愛を交わし 情欲が湧き上がるとき、あなたの呼吸はとても乱れ、熱っぽくなる

ブッダの情欲は 慈悲に変わっている
彼の欲望は 落ちている、消えている
さながら枯れた木の葉が 樹から落ちてしまうようにーーー

そして 彼の呼吸は だんだん、ゆっくり ゆっくりに なっていった

だが、それがしるしなら、どんな模倣者でも そのしるしを みせることはできる

仏陀は 静かに黙して坐り、その姿勢は 不動で、ひとつの姿勢のままでいる
だが、これは 誰にでもできることだ
ただ ちょっとした訓練が 必要なだけだ
しかし、その訓練では あなたは ブッダにはなれない
だから仏陀は言う・・・


“ 世尊は言われた
「相の所有があるところには
どこであれ欺瞞がある」”


誰かが「私はブッダの相をもっている、ごらん、私はブッダだ」と 主張するとしたら
そのときには、欺瞞がある
なぜなら その主張自体が 欺瞞の証明だからだ


“ 相の所有がないところでは
どこであれ欺瞞がない
それゆえ 如来
相としての非相から認識されなければならない ”


なぜ仏陀は、突然、この質問を スブーティに問いかけたのだろう ?

ある欲望が スブーティのなかに 湧き上がったにちがいない
これらは理解されるべきことだ
ある欲望が スブーティのなかに 湧き上がったにちがいない
彼はまさに ブッダになる瀬戸際にいる
ある欲望が 湧き上がったにちがいない
「もうすぐ、私は三十二相を 所有する
もうすぐ、私は ブッダになる
ブッダであることを宣言される
私は三十二相を得るのだ」


それは ただ無意識の欲望だったかもしれない
だが、さざ波・・・
仏陀を、そして彼の 三十二相、彼の 優雅さ、彼の 美しさを見たら
欲望を起こさない者が いるだろうか ?

しかもスブーティは いま、その力があり、まさにブッダフッドの 戸口にいる


仏陀が 与えずして与えることを 説いているうちに
仏陀が「与える者、贈り物、受け取る者という想いなくして
与えることができたら、あなたの功徳は大きい」と 説いているうちに・・・

それを聴いて、彼は願望をいだいたにちがいない
その願望は かすかな種ほどのものだったかもしれない
だが、彼は願望をもったにちがいない
「それなら
その大きな功徳を積めば、私はブッダになる
私は 三十二相を 得る
仏陀を包むのと 同じ香り、同じ優雅さ、同じ輝き、同じ 祝福ーーー
ああ ! 」
彼は どこかで そういう欲望を いだいたにちがいない


その欲望を見て、仏陀は言う
「スブーティよ、おまえは どう思うか
如来は その相の所有によって認識されるものであろうか ?」

スブーティの意識や 無意識の この底流を見抜かないかぎり
あなたは『ダイヤモンド・スートラ』を 理解しない


“ スブーティは訊ねた
「未来の世に
最後の時に
最後の代に
最後の五百年代に
良い教えが滅びる頃になって
この経典の言葉が説かれるとき
その真理を理解する者が誰かいるでしょうか ? 」”


さて、あなた方は驚くだろう
いまこそ スブーティが語っている その時代であり、あなた方が その人々だ
二千五百年が 過ぎた
スブーティは あ な た 方 に つ い て 訊ねていたのだ


仏陀は言った
「宗教が誕生するときは いつであれ
ブッダが ダンマ(究極真理)の 車輪を転ずるときはいつであれ
当然、しだいにゆっくりと そのダンマの車輪は止まりはじめる」

それは 勢いを失う
ん? 車輪を まわしてごらん
そうすれば それは動き出す
それから、だんだん だんだん それが止まる瞬間が やって来る


ブッダが ダンマの車輪を転じたら
それが完全に止まるには 二千五百年かかる
それは 五百年ごとに 勢いを失いつづける
したがって、それらが ダンマの五つの時期になる
五百年 経つごとに、ダンマは だんだん衰え、だんだん 減じてゆく

そして二十五世紀後には、その車輪は もとのように止まる
それを さらに次の二十五世紀間 まわすためには、もうひとりのブッダが 必要だ
これは まれな現象だ
スブーティが仏陀に訊ねたのは ほんとうに興味深いことだ



(11)終わり・・・(12)へ 続く