saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第三章 「 ダンマの車輪 」 (10)

(…もし それを望んだら、あなたはけっしてそれを 得ることは できない
もし それを 望まなかったら、それはあなたの上に 降り注ぎつづける )


低い位相からみれば、イエスの言葉は正しい
この言葉は ふつうの人たちに 与えられた
「求めよ、 さらば与えられん
さがせ、さらば見出さん
叩け、さらば扉は開かれん」

だが、仏陀は スブーティに話しかけている
彼はまさに こう言っているのだ
「求めよ、 そうすれば それは与えられない
さがせ、そうすれば 見つからない
叩け、そうすれば扉は 万里の長城と化して、絶対に開かなくなる」


憶えておきなさい
そのちがいは 聞き手から来ている
エスが 話しかけているのは ただの人
仏陀が話しかけているのは ただならぬ人だ


“ 世尊は続けられた
「どう思うか スブーティよ
如来はその相の所有によって認識されるものであろうか ? 」
スブーティは答えた
「おお世尊よ そうではありません
何故でしょうか ?
如来によって相の所有として説かれたものは
実は非相の非所有だからです」 ”


“ 世尊は言われた
「相の所有があるところには
どこであれ欺瞞がある
相の所有がないところには
どこであれ欺瞞がない
それゆえ 如来
相としての非相から認識されなければならない」 ”


これらは 謎々のようだ
そうではない
これらは謎々のようにみえるが、そうではない
しかし、仏陀が説いているこの高みからすれば、あらゆるものが 矛盾になる
矛盾が 唯一の表現になる
存在の この豊かさからすれば、人は 逆説的にならざるを得ない
論理は あらゆる意味を失う
もし論理的であることに こだわったら、人はその豊かさへ 進んで行くことはできない
そして その真理を 表現することはできない
その真理は 矛盾したものにならざるをえない

仏陀は問う
「スブーティよ
如来はその相の所有によって認識されるものであろうか ? 」

仏教経典は「仏(ブッダ)は 超人であることを示す三十二の相(マーク)を持つ」と言う
この「三十二相」ーーーそれらは 決定的要因になるのだろうか ?

ふつうの人間にとっては それはいい
なぜなら あなた方は ほかの眼を持たず、見えるものは ただ外側のしるしだけだからだ

あなた方は サインやマークによって生きる

しかし、スブーティのような人にとっては
ーーー内側を 見ることができる人、仏陀のなかを 見ることができる人にとってはーーー
そういう相(マーク)は もう関係ない
さらに、何であれ 所有することは ブッダの質ではない
それらの 三十二相でさえだ
それらは どうでもいいことだ
ブッダは まったく ふつうでなければならない
なぜなら 彼は 何も 所有しないからだ
それが 彼の 真実の相(マーク)だ

何も所有しない ということ
ーーーそれが ブッダフッドの 実相だ
こうして、物事は 矛盾的になる


ほんとうのブッダとは、ブッダだということさえ 主張しない人だ
なぜなら、主張は すべて欺瞞的なものだからだーーー

主張する ということは 詐欺師である ということだ
ブッダは どんな主張もしない
彼は どんな主張も もたない
彼は どんなものも 求めない
彼は どんな意味でも誇示することには興味がない
彼は他者に 自分が何ものであるかを 納得させることには興味がない
彼は 完全に そこ に いる

あなたは 彼に加わることができる
あなたは 彼のダンスのなかに加わることができる
あなたは 彼のセレブレーションを 分かち合うことができる
しかし、彼は 何かを証明するために そこにいるのではない

何かを証明する ということは、あなたはまだ達成していないことを 証明するだけだ

彼は 弁護的ではない


それら外側の相(マーク)は、ブッダではないかもしれない人たちによって 創り出されうる
何でも創り出されうる



(10)終わり・・・(11)へ 続く