saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第三章 「 ダンマの車輪 」 (01)

4,
「なぜなら
贈り物を与える菩薩は
物に支えられてはならず
どこに支えられてもならないからだ
偉大なる存在は
このように
しるしという想いに支えられないようにして
贈り物を与えなければならない
何故か ?
その菩薩(ボーディ)の存在の功徳の積み重ねは
支えられずして贈り物を与えれば
たやすく測り知られぬものになるからだ」


5,
世尊は続けられた
「どう思うか スブーティよ
如来はその相の所有によって認識されるものであろうか ? 」
スブーティは答えた
「おお世尊よ そうではありません
何故でしょうか ?
如来に因って相の所有として説かれたものは
実は非所有だからです」


世尊は言われた
「相の所有があるところには
どこであれ欺瞞がある
相の所有がないところには
どこであれ欺瞞がない
それゆえ 如来
相としての非相から認識されなければならない」



6,
スブーティは訊ねた
「未来の世に
最後の時に
最後の代に
最後の五百年代に
良い教えが滅びる頃になって
この経典の言葉が説かれるとき
その真理を理解する者たちが誰かいるでしょうか ?」


世尊は答えて言われた
「スブーティよ
そのように言ってはならない
そうだ その時代でも
この経典の言葉が説かれるとき
その真理を理解する者たちがいるであろう
なぜなら
その時代にさえも スブーティよ
菩薩たちはいるからだ
そしてその菩薩たちは スブーティよ
ただひとりの覚者(ブッダ)を敬った者たちではなく
ただひとりの覚者(ブッダ)の許で善根を植えた者たちでもない
それどころか スブーティよ
この経典の言葉が説かれるとき
たとえ一念だけでも
静かに澄んだ〈信〉を得る菩薩たちは
何十万という多くの覚者(ブッダ)たちを敬い
何十万という多くの覚者(ブッダ)たちの許で
善根を植えてきた者たちなのだ


彼らは スブーティよ
仏智によって如来に知られている
彼らは スブーティよ
仏眼によって如来に見られている
彼らは スブーティよ
完全に如来に知られている
そして彼らはすべて スブーティよ
測りしれない 数えきれない功徳を積むであろう」



「それゆえに、 スブーティよ
よく、 注意深く聴きなさい」
と、ゴータマ・ブッダは 言う

これは不思議な言葉だ

不思議だ、 というのも、仏陀は ボーディサットヴァに語りかけているからだ
もし ふつうの人間に 語りかけているのだとしたら
それは不思議ではなかっただろう
ふつうの人間が よく聴く必要があるということは 理解できる
聴く ということは、非常に むつかしい
聴く ということは、 い ま こ こ にいる ということだ
聴く ということは、どんな思考もなく在る ということだ
聴く ということは、敏感で、醒めている ということだ
これらの条件が満たされたら、そのときはじめて あなたは聴く


マインドは 内側で 狂人のように動きつづける
うわ言を言う 狂人のようにーーー

マインドは 千と一つの思考を紡ぎ出しつづける
そしてマインドは、過去や未来のなかで、世界中を動きつづける
あなたは どうやって聴くことができよう ?

あなたが何を聞こうと、それは少しも正しい聴き方ではない
あなたは まったく言われなかった 何かほかのことを 聞いている

あなたは 言われていることを聴きのがしつづける
なぜならあなたは 同調していないからだ
聾者ではないのだから、あなたはもちろん その言葉を聞く
しかし ただそれだけでは 聴いたことにはならない


だからイエスは 弟子たちに 言いつづけている
「耳ある者は聴け、眼ある者は見よ」
その弟子たちは盲人でも聾者でもなかった
彼らは あなたと同じような 健康な眼を持ち、あなたと同じような 良い耳を持っていた

しかしイエスの言葉は 不思議ではない、的を得ている
彼は ふつうの人たちに 話しかけている
彼は その人たちの 注意を促さなければならない
彼は 大声で 叫ばなければならない

しかし仏陀の言葉は 不思議だ
彼が 語りかけているのは、ボーディサットヴァだ
偉大な存在、ボーディの存在、まさに ブッダになる瀬戸際まで来ている者だ
彼が「それゆえに、スブーティよ
よく、注意深く聴きなさい」と 言うとき
それは 厳密には どういう意味だろうか ?


よく聴くとは
ふつう、受容的な気分のなかで、深い受容性のなかで聴くことを意味する




(01)終わり・・・(02)へ 続く