saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第五章 「〈光明〉の味 」 (01)


6,
「それは何故か ?
スブーティよ
これらの菩薩たちには
自己に対する知覚
生けるものに対する知覚
魂に対する知覚
個人に対する知覚は起こらないからだ
またこれらの菩薩たちは
法 (ダルマ)を知覚せず
非法(ノーダルマ)も知覚しない
彼らのなかには知覚も非知覚も起こらない


それは何故か ?
スブーティよ
もしこれらの菩薩たちが
法あるいは非法を知覚したならば
それによって彼らは
自己を
生けるものを
魂を
個人を 捕らえてしまうからだ


何故か ?
それは菩薩は法も非法も捕らえてはならないからだ
それゆえに
この言葉が如来によって密意をもって説かれた
『法は筏の如(ごと)しという講話を知る者たちによって
法は捨てられなければならない
まして非法はなおさらそうである』


7,
世尊は問われた
『スブーティよ どう思うか
「無上の 正しい 完全な〈光明〉」として
如来がよく知っている法が何かあるだろうか ?
あるいは如来が教え示した法が何かあるだろうか ?』


スブーティは答えた
『いいえ
私が世尊の言われたことを理解するところによると
そうではありません
なぜでしょうか ?
如来がよく知り 教え示されたその法ーーー
それは把握することはできないし
語られることもできないからです
それは法でもなく 非法でもありません
何故でしょうか ?
それは絶対的なるものが聖者たちを高めるからです』」


要約しようーーー
前の スートラで、スブーティは こう訊ねた

「末世に
良い教えが滅びる頃になって
法(ダンマ)を理解できる者たちが誰かいるでしょうか ? 」

仏陀は答えた
「スブーティよ
そのように言ってはならない
そうだ その時代でも
真理を理解する者たちがいるであろう

静かに澄んだ〈信〉は
たった一念でも 人間を変容させるのにじゅうぶんである

彼らは スブーティよ
仏智によって如来に知られている
彼らは スブーティよ
仏眼によって如来に見られている
彼らは スブーティよ
完全に如来に知られている」



幾つかのことが 理解されなければならない
そうしたら 今日の経文に 入って行きやすくなる


第一に 良い教え、ダンマだ
仏陀は、もしそれが 教えでなければ 教えは良い と 言う
もしそれが 教えであれば それは 良い教えではない

仏陀は、もしそれが哲学でなければ 良い哲学だ と 言う
もし哲学であれば そのときには それは 良い哲学ではない


教えは、定められた、固定された 現象だ
宇宙は 流動している
どんな教えも それを 包含することは できない
どんな教えも それに正当ではありえない
どんな教えも〈存在〉を 正当に扱うことはできない

あらゆる教えは 行きづまる

だから仏陀は言う
「私の教えは 教えではなく、ひとつの ヴィジョンに すぎない
私はあなた方に、どんな既成の規則も 与えてはこなかった
私はあなた方に、どんな体系も 与えてはこなかった 」
彼は言う
「私はあなた方に 真実への 取り組み方だけを 与えてきた
私はあなた方に 扉を開ける鍵だけを 与えてきた
その扉を 開けたとき あなた方が 何を見るかについては
私は 何も言ったことはない
それについては 何も 語られない」


ちょっと想像してみなさい
ずっと 暗い ほら穴のなかに住んでいて
光を まったく知らず
色を まったく知らず
一度も 太陽や 月を 見たことがない人のことをーーー

どうやって 彼に 虹について話すことが できよう ?
どうやって 彼に 星のことを話すことが できよう ?
どうやって 彼に バラを描いてみせることができよう ?
それは 不可能だ
あなたが彼に言うことを 何であれ 彼が理解したとしても、それは まちがっている
彼は 教えを 創り出せるが、それは まちがっている


だから仏陀は言う
「私は あなた方に どんな教えも 与えたことはない
私は あなた方に ただ 扉を開ける鍵だけを 与えてきた
あなた方が 自分の存在の暗い穴から 外に出ることができるように
自分で 実相、ヤター・ブータム、〈あるがまま〉を 見ることができるように」


それ に ついては 何も語られたことはない
だから それは 教えではない
仏陀は 哲学者ではない



(01)終わり・・・(02)へ 続く