saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第九章 「 浄土楽園 」 (14)

(… 弟子は、開放的(オープン)で 感じやすい大地のように ならなければならない

感じやすい大地は 太陽がどういうものであるかを知っている

大地は それを 言うことはできない、 それを 表現することはできない

だが、それは知っている )

 

それが スブーティがこう言うときの意味だ

「認識が 私のなかに生まれた

私は 言うことはできない

そこには、それを掴む私は いない

そこには、それを捕らえる 私は いない

私は ただの 空(くう)だ

しかし知覚(パーセプション) が 生じている

認識(コグニション) が 生じている

観察(ダルシャン) が 生じている

私は 見た

だが、 そこにはまったく見る者は いない」

 

 “ 世尊は言われた

「そのとおりだ スブーティよ

 この上なく祝福された者たちとは

 この経を聴いても 震えず 畏れず 恐怖に陥らない者たちだ」”

 

この経典は 死のようだ

これは 十字架の刑だ

あなたは 死ななければならない

死を 通してのみ、あなたは 生とは何かを 知る

復活はありうるが、 それは十字架の 磔(はりつけ)を 通してのみ可能だ

だから仏陀は、この経文は危険だ、 と 言った

そして・・・

 

 “ この上もなく祝福された者たちとは

 この経を聴いても 震えず 畏れず 恐怖に陥らない者たちだ

 

 さらにまた スブーティよ

 如来の忍耐の完成は実は完成ではない

 何故か ?

 スブーティよ

 カリンガ王が私の手足から肉を切ったとき

 まさにそのときに 私は

 自己に対する知覚も

 存在に対する知覚も

 魂に対する知覚も

 個人に対する知覚も

 いっさい持たなかったからだ

 何故か ?

 スブーティよ

 もしあのときに自己に対する知覚があったとすれば

 私は あのときに 敵意を覚えていたにちがいないからだ ”

 

彼は、スブーティに 自分の過去生の 古い体験を思い出させる

その過去生のとき、カリンガ王が 彼の手足を切り取ったのだ

彼は 言う

「私の体が 切られたとき

私の 両手、 両足が切られ、私の 舌や眼が 取り去られたとき

私は 見守っていた

そして私のなかに「私」が 生じるのは見えなかった

それを 見ている者 は 誰もいなかった

それによって傷つけられる者 は 誰もいなかった

もし そのときに「私」に対する知覚が 少しでも生じていたら

そのときには敵意が 湧き上がっていただろう

そうなったら私は、私を 殺し、 破壊している その王に 怒りを覚えていただろう

しかし、 私は 怒りを 覚えなかった

そこには 怒りは いっさいなかった」

 

 

自我(エゴ) が 怒りを もたらす

怒りは 自我(エゴ)の 影だ

自我(エゴ)は 攻撃性、暴力を 生む

ひとたび自我(エゴ)が 消えれば、いっさいの暴力は 消える

自我(エゴ)が 完全に消えたとき はじめて、 人は 愛になる

 

 “ さらにまた スブーティよ

 生きとし生けるものの 幸福のためにこそ

 菩薩は このように贈り物を与えなければならない

 何故か ?

 スブーティよ

 生けるものに対するこの知覚 ーーー

 それは非知覚にすぎないからだ

 如来が説いたこの生きとし生けるもの ーーー

 それらは実は生けるものではないからだ

 何故か ?

 如来は現実に従って語り

 真理を語り

〈あるがまま〉を語り

 それ以外は語らないからだ

 如来は偽って語らない

 

 スブーティよ

如来〉は〈真の如性〉と同義である ”

 

仏陀は 言う

「私は、〈あるがまま〉ーーーヤター・ブータムーーー だけを 語ってきた

私は それ以外のものは 何も語ったことはない

だから、 私の言辞は きわめて逆説的で、きわめて非論理的なのだ

なぜなら、 真理は 非論理的だからだ

真理を理解 するためには

あなたは 論理を 落とさなければならない」

 

 

第九章「浄土楽園」終わり・・・第十章「完全な〈空〉」(質疑応答) へ 続く