(… 弟子は、開放的(オープン)で 感じやすい大地のように ならなければならない
感じやすい大地は 太陽がどういうものであるかを知っている
大地は それを 言うことはできない、 それを 表現することはできない
だが、それは知っている )
それが スブーティがこう言うときの意味だ
「認識が 私のなかに生まれた
私は 言うことはできない
そこには、それを掴む私は いない
そこには、それを捕らえる 私は いない
私は ただの 空(くう)だ
しかし知覚(パーセプション) が 生じている
認識(コグニション) が 生じている
観察(ダルシャン) が 生じている
私は 見た
だが、 そこにはまったく見る者は いない」
“ 世尊は言われた
「そのとおりだ スブーティよ
この上なく祝福された者たちとは
この経を聴いても 震えず 畏れず 恐怖に陥らない者たちだ」”
この経典は 死のようだ
これは 十字架の刑だ
あなたは 死ななければならない
死を 通してのみ、あなたは 生とは何かを 知る
復活はありうるが、 それは十字架の 磔(はりつけ)を 通してのみ可能だ
だから仏陀は、この経文は危険だ、 と 言った
そして・・・
“ この上もなく祝福された者たちとは
この経を聴いても 震えず 畏れず 恐怖に陥らない者たちだ
さらにまた スブーティよ
如来の忍耐の完成は実は完成ではない
何故か ?
スブーティよ
カリンガ王が私の手足から肉を切ったとき
まさにそのときに 私は
自己に対する知覚も
存在に対する知覚も
魂に対する知覚も
個人に対する知覚も
いっさい持たなかったからだ
何故か ?
スブーティよ
もしあのときに自己に対する知覚があったとすれば
私は あのときに 敵意を覚えていたにちがいないからだ ”
彼は、スブーティに 自分の過去生の 古い体験を思い出させる
その過去生のとき、カリンガ王が 彼の手足を切り取ったのだ
彼は 言う
「私の体が 切られたとき
私の 両手、 両足が切られ、私の 舌や眼が 取り去られたとき
私は 見守っていた
そして私のなかに「私」が 生じるのは見えなかった
それを 見ている者 は 誰もいなかった
それによって傷つけられる者 は 誰もいなかった
もし そのときに「私」に対する知覚が 少しでも生じていたら
そのときには敵意が 湧き上がっていただろう
そうなったら私は、私を 殺し、 破壊している その王に 怒りを覚えていただろう
しかし、 私は 怒りを 覚えなかった
そこには 怒りは いっさいなかった」
自我(エゴ) が 怒りを もたらす
怒りは 自我(エゴ)の 影だ
自我(エゴ)は 攻撃性、暴力を 生む
ひとたび自我(エゴ)が 消えれば、いっさいの暴力は 消える
自我(エゴ)が 完全に消えたとき はじめて、 人は 愛になる
“ さらにまた スブーティよ
生きとし生けるものの 幸福のためにこそ
菩薩は このように贈り物を与えなければならない
何故か ?
スブーティよ
生けるものに対するこの知覚 ーーー
それは非知覚にすぎないからだ
如来が説いたこの生きとし生けるもの ーーー
それらは実は生けるものではないからだ
何故か ?
如来は現実に従って語り
真理を語り
〈あるがまま〉を語り
それ以外は語らないからだ
如来は偽って語らない
スブーティよ
〈如来〉は〈真の如性〉と同義である ”
仏陀は 言う
「私は、〈あるがまま〉ーーーヤター・ブータムーーー だけを 語ってきた
私は それ以外のものは 何も語ったことはない
だから、 私の言辞は きわめて逆説的で、きわめて非論理的なのだ
なぜなら、 真理は 非論理的だからだ
真理を理解 するためには
あなたは 論理を 落とさなければならない」
第九章「浄土楽園」終わり・・・第十章「完全な〈空〉」(質疑応答) へ 続く