saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第七章 「 平安に住する者 」 (14)

 仏陀は問う

“ どう思うか スブーティよ

 では アルハットにこういう考えが起こるだろうか ?

「私によってアルハットの境地が達成された」” 

 

さて、アルハットの境地は、ある状態ではない

それは 何か客体のような 物ではない

あなたは それ を 捕まえることはできない

あなたは それ を 所有することはできない

あなたは それ を たくわえることはできない

それ は 自由だ、所有されるべき物ではない

それ は 自由だ

あなたは ただ 自分の鎖を 落としつづける

ある日、鎖は すべて消える

最後の鎖である「私」という観念さえも 消える

そうなったら、誰もいない

その意識が「アルハット」と 呼ばれる

 

 仏陀は問う

“「私はアルハットの境地を達成したという考えが、アルハットに起こるだろうか ?」

 

 だからこそ彼はアルハットと呼ばれるのです

 何故でしょうか ?

 私は おお世尊よ

 如来が「平安に住する者たちの第一人者」と指摘した者だからです ”

 

今度は、スブーティは 自分を 例に取り上げる

彼は言う

「あなたは私に『おまえは達成した』と 宣言されました

あなたは私のことを『おまえはアルハットになった』と 宣言されました

あなたは、私が平安のなかに住んでいる と 宣言されました」

これは 内側に誰もいないことを言う 仏陀独特の言い方だ

平安に住する ーーー

 

「平安に住する」とは、誰もいない という意味だ

なぜなら、もし誰かがいれば 平安は 不可能だからだ

もし誰かが いれば なんらかの騒ぎが続く

家が 静かなのは 家の中に 誰もいないときだけだ

たとえちょっとでも誰かがいれば 騒ぎはたえない

たとえひとりの人間でもそこにいれば、彼は物を あちこち動かす

彼は 何かをする

ぐっすり眠っているときでさえ、彼は いびきをかく

何ごとかが 起こらざるをえない

まったく誰もいないとき、そのときには 平安がある

 

仏陀は、アルハットフッドの状態とは

そこに誰ひとり 見つからないほどの 完全な平安がある場合だ、 と言う

 

仏陀が「スブーティよ、おまえは平安に住している」と 言うのを常としたとき

彼は「スブーティよ、いまやもう おまえはいない」と 言っている

それは 同じだ

 

スブーティは 言う

「あなたは、スブーティは 平安に住している、と宣言されました

あなたは、スブーティは アルハットになったと宣言されました

あなたは真実であるに違いありません、世尊よ

どうしてあなたが 偽りでありえましょう ?

しかし、私は『私はアルハットだ、貪欲から自由だ』とは 言えません

そういう考えは 私には 起こりません

それが私に起こるなら、そのときには あなたが間違っておられるのです」

「もし『私は アルハットだ』という考えが 私に起こるとすれば

そのときには、自我(エゴ)が 生じています

そのときには、自己が 捕らえられています

そのときには、私は また古い罠に囚われているのです

もし『私は 平安に住している』という想いが 私のなかに生じるとすれば

そのときには 平安は 失われています

なぜなら〈私〉が 帰ってきているからです

〈住する者〉が 戻っているからです」

そうなったら、あなたは平安に住することは できない

そうなったら、当然何かが 起こる

苦しみ、夢想、欲望、そして世界、 ーーーこの全世界が 始まる

 

自我(エゴ) は この世界の種だ

この小さな種が 全世界を 内包している

「私がいる」と 感じてごらん、そうすれば ただちに全世界がその後に 続いて来る

 

(14)終わり・・・(15)ヘ 続く