saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第七章 「 平安に住する者 」 (01)

「ダイヤモンド・スートラ」第七章   平安に住する者

 

 八、それから 世尊は言われた

「そうだ スブーティよ

 なぜなら如来はこう説いているからだ

『覚者(ブッダ)たちに特別な法は

 まさに覚者(ブッダ)の特別な法ではない』

 だから、それは『覚者(ブッダ)たちに特別な法』と呼ばれる」

 

九、世尊は問われた

「どう思うか スブーティよ

 流れ勝つ者(流れを勝ち得た者)に こういう考えが起こるだろうか ?

『私によって流れ勝つ者という成果が達成された』」

 スブーティは答えた

「断じて否です

 おお世尊よ

 なぜでしょうか ?

 おお世尊よ

 彼はいかなる法も勝ち取ったのではないからです

 だからこそ彼は『流れ勝つ者』と呼ばれるのです

 いかなる視覚の対象も

 いかなる音声も 香りも 味も 触れうるものも

 心の対象も勝ち取られてはいません

 だからこそ彼は『流れ勝つ者』と呼ばれるのです

 もし おお世尊よ

 流れ勝つ者に

『私によって流れ勝つ者の成果が達成された』という考えが起きたら

 そのときには 彼のなかには

 自己の把握

 生けるものの把握

 魂の把握

 個人の把握があることになりましょう」

 

 世尊は問われた

「どう思うか スブーティよ

 それでは アルハットに

『私によってアルハットの境地が達成された』

 という考えが起こるだろうか ?」

 スブーティは答えた

「断じて否です

 おお世尊よ

 何故でしょうか ?

 それはいかなる法もアルハットとは呼ばれないからです

 だからこそ彼はアルハットと呼ばれるのです

 何故でしょうか ?

 私は おお世尊よ

 如来が『平安に住する者たちの第一人者』と指摘した者です

 私は おお世尊よ

 貪(むさぼ)りを離れたアルハットです

 それにもかかわらず おお世尊よ

『私はアルハットであり 貪りを離れている』

 という考えは私には起こりません

 もしも おお世尊よ

『私はアルハットの境地を達成した』という考えが起こりうるならば

 そのときには 如来は私をこう宣言なさらなかったでしょう

『スブーティ

 この良家の息子

 平安に住する者たちの第一人者は

 どこにも住してはいない

 だからこそ彼は呼ばれる

 平安に住する者  平安に住する者 と』」

 

あなた方の ほとんどにとって

『ダイヤモンド・スートラ』は、不条理に、狂っているように みえる

それは 非合理だが、反合理的ではない

それは 理性を超えた 何か だ

だから それを言葉で表現するのは きわめてむつかしい

 

あるとき

酒飲みで、煙草好きで、ポップコーン好きの アメリカ人牧師が

私のところに 泊まっていた

私の 書斎のなかを歩き回っていて、彼は偶然に『ダイヤモンド・スートラ』を 見つけた

十分、 十五分ほど 彼はそのなかを あちこち見入っていた

それから彼は 私のところへ来て、言った

「この仏陀という男は 狂っていたにちがいない

彼は、自分が狂っていただけではなく、狂った弟子たちも 持っていたようだね」

 

私には 彼の言葉が 理解できる

仏陀は あなた方にとっても、狂ってみえる

なぜなら、彼は 言うことができないことを 言おうとしている からだ

彼は、本質的に 表現しがたいものを 捕らえようとしている

それゆえに、この あらゆる不思議な言葉が出てくる

それらは 不思議だ

それらが不思議なのは それらの使われ方、それらの 表現の仕方が論理的ではないからだ

それは どんな意味も なさない

少なくとも 表面的には ーーー

 

もしあなたが 何か 彼方なるものを 感じたことがなければ

あなたが  仏陀の為そうとしていることを 理解するのは非常にむつかしい

 

私たちは、自分で体験したことしか 理解できない

もし完全にではないとしても、少なくとも 一部分でも、自分で体験したことしか ーーー

さもなければ、私たちの理解は 私たちの体験に根を張ったままだ

 

(01)終わり・・・(02)へ 続く