saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第七章 「 平安に住する者 」 (13)

(…体は 少し快適さを 求めているのに、あなたは 石の上に眠る

体は ちょっといい日陰を求めているのに、あなたは 熱い陽ざしのなかに立つ

体は 衣服を 二、三枚 着ることを望んでいるのに、あなたは 寒いなかを裸で立つ

これは 闘いの道だ )

いまでは 闘うべき世間がない

そこで、あなたは自分自身を 二つに分割した

 

自我(エゴ) は 摩擦を通して生きる

どんな種類の摩擦でも ことは足りる

夫は妻と 闘い、妻は 夫と闘うーーーこれは 自我(エゴ)を 養う道でしかない

あなたが 闘えば闘うほど、いっそう 自我(エゴ)は 強くなる

そして 自我(エゴ)が 得る 最大の強さは、自分自身と闘うことから 来る

それは 最も強烈な闘いだからだ

 

誰か ほかの人を殺すことは 別の問題だ

何年もかけて、ゆっくり連続的に 自分自身を殺すことは、困難な仕事だ

それは 緩慢な 自殺だ

そして 自我(エゴ)は とても気持ちがいい

だから いわゆる宗教的な僧侶たちは 大きな自我(エゴ) を もっている

あんな大きな自我(エゴ)は、世間の ふつうの人たちのなかには 見つからない

あなたが 真に大きな自我(エゴ)を 望むなら

そういう自我(エゴ)が どう在るかを 見たいなら

 

ヒマラヤへ 行きなさい

そうすれば あなたは 洞窟の中に それを見出す

 

明け渡した人は「私が明け渡した」と 主張することはできない

彼は ただ「明け渡し(サレンダー)が起こった」としか 言えない

 

“ 断じて否です

 おお世尊よ

 何故でしょうか ?

 おお世尊よ

 彼はいかなる法も勝ち取ったのではないからです

 だからこそ彼は『流れ勝つ者』と呼ばれるのです ”

 

あなたは「私」を 落とした、だからあなたは 明け渡す者 と呼ばれる

あなたは「私が明け渡した」と 主張することはできない

もし主張すると したら、あなたは 肝心な点を 見のがしたことになる

 

 “ いかなる視覚の対象も

 いかなる音声も 香りも 味も 触れうるものも

 心の対象も勝ち取られてはいません

 だからこそ彼は『流れ勝つ者』と呼ばれるのです ”

 

彼は 対象のようなものは 何も勝ち取っていない

実際のところ、何も勝ち取らないどころか、彼は 勝つ という 観念そのものを 落とした

だからこそ彼は 流れ勝つ者 と 呼ばれる

彼は 何生にもわたって 行なってきた闘い、戦争を すべて放棄した

彼は そういう企てを すべて放棄した

彼はもう それに 関心をもっていない

 

彼はあなた方に 何かを見せて こう言うことはできない

「私は これに 勝った

ごらん ! これが 私の勝利だ」

彼は あなた方に、自分が勝ち取った王国を 見せることはできない

彼は 何か 目に見えるものを 勝ち取ったのではない

実際のところ、何か 目に見えるものを勝ち取るよりも、むしろ彼は 自我(エゴ)を 落とした

が、その自我(エゴ)を 失うことのなかに、 偉大な 勝利が ある

しかし その勝利は 主張することのできない種類の ものだ

 

“ もし おお世尊よ

 流れ勝つ者に

『私によって流れ勝つ者の成果が達成された』という考えが起きたら

 そのときには 彼のなかには

 自己の把握

 存在の把握

 魂の把握があることになりましょう ”

 

「私は勝った、私は明け渡した」と 考えた瞬間

また、 あなたは 新しい「私」を 創り出した

また、 自己が 湧き上がった

また、 あなたは 自我(エゴ)のやり方で 見はじめた

また、 あなたは 自己を 知覚した

 

英語の perception (知覚)という言葉は 美しい

それは per-cap や capio から 来ている

「〜を掴む」「捕まえる」「握る」「捕らえる」という意味だ

どんなかたちであれ、自分が そこにいる と 知覚する瞬間

あなたは また自我(エゴ)を 捕らえ、自我(エゴ)が あなたを 捕らえている

あなたは また古い型のなかへ 戻る

肝心の点が 失われ、あなたは もう 流れ勝つ者ではなくなる

 

このようにして、仏陀

「一度還って来る者」や「けっして還って来ない者」についても 問う

しかし、それは同じなので、私は それを省略した

私は それを経文(スートラ)の なかには取り上げなかった

 

最後に ーーー

“ 世尊は問われた

「どう思うか スブーティよ

 それでは アルハットに

『私によってアルハットの境地が達成された』

 という考えが起こるだろうか ? 」

 

 スブーティは答えた

「断じて否です

 おお世尊よ

 何故でしょうか ?

 いかなる法もアルハットと呼ばれないからです

 だからこそ彼はアルハットと呼ばれるのです

 何故でしょうか ?

 私は おお世尊よ

 如来が『平安に住する者たちの第一人者』と指摘した者です

 私は おお世尊よ

 貪りを離れたアルハットです

 それにもかかわらず おお世尊よ

『私はアルハットであり 貪りを離れている』

 という考えは私には起こりません

 もしも おお世尊よ

『私はアルハットの境地を達成した』という考えが起こりうるならば

 そのときには 如来は私をこう宣言なさらなかったでしょう

『スブーティ

 この良家の息子

 平安に住する者たちの第一人者は

 どこにも住してはいない

 だからこそ彼は呼ばれる

 平安に住する者 平安に住する者 と』」”

 

ただ一度、あなたは その観念を得る

その観念とは

真理の世界へ 動きはじめたとき、あなたは主張者に なれない、ということだ

あなたの主張は 主張の放棄だ

 

ある時、ある人が 仏陀のところへ来て、訊ねた

「あなたは 達成しましたか ?」

仏陀は言った

「私は主張できない、 なぜなら 私は達成したからだ」

 

その美しさを 見るがいい

彼は言う

「私は主張できない、なぜなら私は達成したからだ」

 

「もし主張したら、それは私が まだ達成していない という 明らかな しるしになる」

しかし そのむつかしさも 見るがいい

仏陀が「私は達成していない」と 言えば、彼は 嘘をついていることになる

彼が「私は達成した」と言えば、それはありえないことになる

なぜなら その達成の なかには「私」などないからだ

その達成は「私」が 去ったときにのみ 起こるほどのものだ

あなたは そのむつかしさを見る、いかに言葉が 役立たずになるかを 見る

 

(13)終わり・・・(14)ヘ 続く