saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第九章 「 浄土楽園 」 (13)

(… 涙に満ちた眼は、生の美しさ、生の祝福を見る力がある )

 

 “ そこで 長老スブーティは

 法に感動して 涙を流した

 涙を流し終えると 彼はこのように世尊に言った

「おお世尊よ すばらしいことです

 おお世尊よ まったくすばらしいことです

 如来はこの法話をどんなに立派に説かれたことでしょう

 それを通して 私のなかに認識が生まれました」” 

 

彼は言う

「あなたの臨在、あなたの慈悲に満ちた言葉

あなたの愛、あなたの恩寵 ーーー

それが私のなかに認識を生み出しました

それが私に、「真理とは何か」に対する洞察を、ヴィジョンを 与えてくれました

そしてその認識は 実は知覚ではありません」

さらに、スブーティは言う

「しかし、念のために申します

それはまったく知覚ではありません

なぜなら それを 知覚する者は いないからです

それは 純粋な認識です」

 

「知ること」は 起こった

だが、そこには 知る者も 知られるものも いっさいない

ただ「知ること」だけが 起こった

それは 純粋な「知ること」だった

そこには「知る者」、「知られるもの」、「知る」という区別はない

それはただ「知ること」だ

 

 “ 何故でしょうか ?

 それは覚者(ブッダ) 世尊は

 いっさいの知覚を放棄しておられるからです ”

 

「そして いまや 私は知っています

なぜブッダたちが いっさいの知覚を放棄した と 言われているのかーーー

それは、知覚には、知覚する者と知覚されるもの が 必要だからです

観察には、観察する者と 観察されるもの が 必要だからです

そういう 二元性は すべて落とされています

あるのはただ〈ひとつ〉だけです」

 

それを どのように言うかは、非常にむつかしい

マイケル・アダムスの言葉は助けになる

「それを語るためには これらの言葉すべてを要した

だが、 そこに語るべき何があるだろう ?

いまと ここ、 そこに 何があるだろう ?

樹々に そよぐ風 ーーー

風は吹き、 樹々は たわむ・・・

私は いろいろな言葉を つかってきた

だが、いまや それが苦笑を 引き起こす

というのも、「真実」は ひとつの言葉に すぎないからだ

「生」は 言葉 だ

「死」は 言葉だ

「愛」は 言葉だ

「幸福」は言葉だ

「神」は 言葉だ

風や樹、 駒鳥や あざらし、 子供や太陽は、現実に 在る

が、そのほかのものは たんなる言葉にすぎない」

 

「太陽を表わす言葉は、影がもつ 現実性さえ欠いて、はるかに 冷たい

騒々しいマインドや 探求するハートは、太陽が 何であるか知らない

というのも、太陽は それとは別物で、音もたてず、葛藤もしないからだ

しかし、この静かな、沈黙の大地は 理解しているようにみえる

なんの努力もしないのに、大地は 太陽が何であるかを知っているようにみえる

この 一見死んだような外観の下で

真冬の雪のとばりの 下で

開いた静かな大地は、太陽とは何かを 実によく知っている」

 

弟子は渇いた大地のように ならなければならない

渇いた大地は 雲がどういうものかを知っている

弟子は、開放的(オープン)で 感じやすい大地のように ならなければならない

感じやすい大地は 太陽がどういうものであるかを知っている

大地は それを 言うことはできない、 それを 表現することはできない

だが、それは知っている

 

 

(13)終わり・・・(14)へ 続く