saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第五章 「〈光明〉の味 」 (15)

(…そして第四は person, 存在という観念だ
何度も生まれ変わり、転生する 永遠不変の実体への信仰だ
これを仏陀は「個人 person」と 呼ぶ )

あなたは死ぬ、そしてあなたの「個人」は ただちに ほかの子宮の中に 生まれる
そこには 継続性はあるが「個人」は ない
継続はするが そこに「自己」は ない
継続はするが そこに「個」は ない
継続は するが そこに「魂」は ない


仏陀の このヴィジョンは あまりにも 独特だから
この国でさえ、これほど宗教的な国 インドでさえ、それを のみこむことが できなかった
まるで 仏陀が 宗教の土台全部を 破壊しようと決めてしまったかのように 感じられたのだ


彼は まったく新しいヴィジョンを 与えていた
魂、自己などという ふつうの概念よりも はるかに高い ヴィジョンをーーー

なぜなら そういう概念のなかに、あなたの 自我 (エゴ)は かたちを変えて 隠れつづけるからだ

それらは、自我(エゴ)が 存在し、生き存(なが)らえてゆくための道に ほかならない

仏陀は言う

“ それは何故か ?
スブーティよ
これらの菩薩たちには
自己に対する知覚は起こらないからだ ”


人が内側に 向きを変えたとき
あなたの意識が 内側に転じて、あなた自身の存在を のぞきこんだとき
そこには 何も 見つからない


“ 自己に対する知覚は起こらない
生けるものに対する知覚は起こらない
魂に対する知覚は起こらない
個人に対する知覚は起こらない ”


これら 四つのものは ただちに溶け去る


“ またこれらの菩薩たちには
法(ダルマ)に対する知覚は起こらない ”


法(ダルマ)とは 生における 肯定的な要素を意味する
非法(ノーダルマ)とは 生における 否定的な要素を意味する
肯定性と 否定性ーーー

仏陀は、それらでさえ真実ではなく 消えてゆくものだ、と 言う
ダルマに対する 知覚は起こらない

あなたは内側で 肯定的な現実には 出会わない
あなたは内側で 否定的な現実にも 出会わない
あなたが 出会うのは ただ全面的な〈無〉だ

そして 憶えておきなさい
その〈無〉は、非現実、否定性と 同義に考えられる べきではない
〈無〉とは、たんに 肯定的でも 否定的でもない ということだ
両方とも消えている、そこには あの二元性は もうない

それは 完全な沈黙だ
何も 見つからず、あなた自身さえ 見つからず、あなたは 自由になっている
あなたが自由になるのではない、あなた自身から 自由になるのだ

ほかの人たちが自由のことを 話すとき
彼らはいつも「あなたがそこにいて、自由だ」ということを 意味している

仏陀が 自由について語るとき 彼は言う
あなたが排除される、あなたは そこにいなくなるーーーと

どうしてあなたが 自由のなかに ありえよう ?

もしあなたが 自由のなかにあれば 一種の監禁が 残る
あなたが その監禁だ
あなたが 自由に なることはできない
あなたが いないとき、自由が ある
あなたが あるとき、自由は ない


そして第七番目、非知覚ーーー

そこに 見る対象が何もないとき
どうやって「それは知覚だ」ということを 見ることが できよう ?

自己もなく、肯定性もなく、否定性もない
見るべきものは 何もない
見るべきものが 何もないときには
「ある知覚が起こった」ということを 見ることはできない
知覚は 知覚すべき何か を 必要とする

だから第七番目のことは、知覚は いっさいない、ということだ

だがそうなったら、あなたは「では非知覚は あるのか ?」と 言いかねない

仏陀は言う
見る者も 見るべき物もないとき、どうして非知覚が ありえよう ?

彼は 自我(エゴ)の あらゆる根、自我(エゴ)の あらゆる微妙な在り方を破壊している


これらが 八つの障害物だ
これらが ことごとく消えたとき、人は ボーディサットヴァだ




(15)終わり・・・(16)ヘ 続く