saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第7話 ーーー 〈無〉に 帰依する (15)

…( 瞑想の完成以外 何ものにも依らないということを通して
人のなすべきは
世間的なものも そうでないものも 何ものにも依存せず
一切を 手放すこと )

その結果として現われてくる〈空〉に 自由に徘徊させ
賛否いかなる姿勢にも邪魔されることなく
何ものにも頼ることをやめ
どこに どんな庇護も支えも 求めないこと ーーー
それが 真の “放棄” なのだ

我々の 分離した自己というのは
それに寄りかかったり頼ったりするための支えや つっかい棒を 見つけることによってのみ
それ自身を維持することのできる
ひとつの 見せかけのリアリティー
三宝を 隠れみのとして帰依することは
仏教の中心的な宗教行為の ひとつになっている
仏陀への帰依
サンガ(僧伽 そうぎゃ)への帰依
ダルマ(法) への帰依 ーーー

ここで,仏陀は それも反駁する
これは 矛盾じゃない
彼は ただ単に あなたが 理解できることを 言うにすぎない
私の所説の中にも
あなた方は 千と一つの矛盾を 見出すことだろう
なぜならば,それらは異なった人々に 向けられたものだからだ
あなた方が 成長すればするほど
さまざまな異なった所説が 私によってなされることだろう

私の所説は
あなたに対する ひとつの感応にほかならないからだ
私は 壁に向かって話しているんじゃない
私は あ な た に 向かって話しているのだ

そして,私は あなたが受け取れるだけのものしか 与えることができない
あなた方の 意識が高まれば高まるほど
あなた方の 意識が深まれば深まるほど
さまざまな 違ったものごとが 私によって述べられることだろう


当然
それらの異なった声明は とても矛盾しているように見えるだろう
もし 論理的一貫性を 求めるならば
そんなものは ひとかけらも見つかるまい
仏陀の声明には どんな論理的一貫性も 見出せない

仏陀が亡くなったその日
仏教が 36の流派に分かれてしまったのは そのためだ
亡くなった その日もその日 ! ーーー
もう弟子たちは 36派に 分裂していた
どうしたというのだろう ?

それは,彼が その人たちの異なった意識と 理解に合わせて
さまざまな異なった人々に 数知れない言明をしてきたからだ

彼らは みな口論し,争いはじめた
彼らは こう言う
「これが仏陀が 私に おっしゃったことだ !」
ん ? ちょっと考えても見てごらん

最初の 5人の弟子たちには
彼は「私は 成就を遂げた
さあ 私のところへ来るがいい
あなた方を そこへ連れて行ってあげよう」と 言ってあった

もし この5人の 弟子たちが シャーリプトラに会って
シャーリプトラが
「それは 一種の無達成を通じて 達せられる」だの
「自分が成就した などと公言する者は 間違っている !
なぜなら,それは成就などされ得ないものなのだから」だのと言ったら
その5人の弟子たちは 何と言うだろう ?

彼らは こう言うに違いない
「あなたは 何を言っているのですか ?
我々こそ 一番古い弟子なんですよ
一番の 古顔です
そして これが
仏陀が我々に述べられた最初の声明だったのです
『私は達成した ! 』ーーー
実際のところ,もし彼がそう宣言しなかったら
我々は けっして彼のあとに従ったりはしなかったでしょう
彼が そう宣言したからこそ我々は従ったのです
我々の動機は 明白でした
彼が達成したからこそ
我々も 同じように達成したかったのです
だからこそ 我々は彼の教えに従ったのです
そして彼は 我々に
『私は あなた方の避難場所だ
来て 私に帰依しなさい
私をあなた方の〈隠れ家〉にするといい』と おっしゃった
それを,何というナンセンスなことを あなたは言うのですか ?
仏陀が そんなことを言ったはずがない
あなたは きっと誤解したに違いありません
どこかが おかしくなってしまったか
あなたが でっちあげたかの どちらかです」


さて,この声明
この 般若心経は プライヴェートに語られている
それは シャーリプトラに向かって 語られている
それはとくに シャーリプトラに向けられているのだ
それは 手紙のようなものだ
シャーリプトラは 何の証拠も出して見せられない
当時は テープレコーダーなどというものは 存在していなかったからね

彼はただ こう言うしかない
彼は こう誓うしかない
「私は何ひとつとして 真実ならざることを述べてはいません
仏陀は 私に
『ほかの何ものでもなく
ただ あなたの瞑想だけに依りなさい』と おっしゃったのです」,と


ほかの何かに 依存する心(マインド)は まがいものの自己だ
自我(エゴ) ーーー
自我(エゴ)というのは つ っ か い 棒 なしでは 存在できない
それは つっかい棒を 欲しがる
何かがそれを 支えなければ ならない

一度 あらゆるつっかい棒が 取り除かれてしまったら
自我(エゴ)は 地面に崩れ落ちて 消え失せる

そして,自我(エゴ)が 地面に崩れ落ちたとき はじめて
あなたの中に,永遠であり
時を超えた
不死の意識が 湧きあがる



(15)終わり・・・(16)へ 続く