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「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第3話 ーーー 知識は禍いなり(09)

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これらの経文は 仏陀の最大の弟子のひとり
シャーリプトラ ( 舎利弗,舎利子)に向かって語りかけられている

なぜシャーリプトラなのか ?


第1話で 私はあなた方に 七つの段階
梯子の七段がある ということを話した
第七は 超越だ
禅,タントラ,道(TAO) ーー
第六は 霊性超越
ヨーガ ーー
第六までは 方法(メソッド) が 依然として重要だ
“ how ” が依然として 重要だ
第六までは統制が 依然として重要だ
儀式が,テクニックが依然として重要だ
第七に到達してはじめて
あなたは 何ひとつ必要ないことを見抜く


この経文の中で シャーリプトラが指名されているのは
シャーリプトラが 第六中枢(センター),第六段にいたからだ
彼は 仏陀の弟子の中でも最も大物のひとりだった
仏陀には 18大弟子がいる
シャーリプトラは それら18人の中でも おもだったひとりだ
彼は仏陀のまわりでは 最も博識な人だった
彼は仏陀のまわりでは最大の学者であり,パンディット (ヒンドゥー教で言う神学者) だった
彼が仏陀のところに来たとき
彼自身の五千人の弟子を有していた
仏陀のところへ はじめてやって来たとき
その目的は
議論し,論争し,仏陀を打ち負かすことだった
彼は 感銘を与えてやろうと
自分の五千人の弟子たちを引き連れてやって来た
そうして,彼が仏陀の前に立つと
仏陀は笑った
そして,仏陀は 彼にこう言った
「 シャーリプトラよ
あなたは多くを知っている
けれども,あなたは全然知りはしない
あなたが 大変な知識を詰め込んでいるのは私にもわかる
だが,あなたは 空っぽだ
あなたは討論し,議論を戦わし
私を 打ち負かそうとやって来た
だが,もしあなたが 本当に私と 討論したいのなら
あなたは 少なくとも 一年待たなくてはなるまい 」


シャーリプトラは言った
「 一年 ?
何のために ? 」

仏陀いわく
「 あなたは 一年の間 沈黙を守らなくてなるまい
それが支払われるべき代価だ
もしあなたが 一年間 沈黙を守ることができたなら
そのときには,私と 討論してもいい
というのも
私が あなたに話そうとしていることは
沈黙から出てくるものだからだ
あなたも少しは その経験を必要とする
そして私にはわかる,シャーリプトラよ
あなたはまだ,ただ一瞬の沈黙も味わってはいない
あなたはあまりにも知識で一杯だ
あなたの 頭は重たい
私はあなたに 哀れみを感じる,シャーリプトラよ
あなたは 幾多の生にわたって
たいそうな重荷を背負い続けてきた
あなたは 今生でバラモンであるだけではない,シャーリプトラよ
あなたは 幾多の生にわたって ずっとバラモンだったのだ
そして,幾多の生にわたって
あなたは ヴェーダやそのほかのいろいろな経典を持ち運んできた
それが幾多の生にわたって あなたの 流儀だった
だが,私には ひとつの可能性が見える
あなたは博識だ
けれども,まだ見込みがある
あなたは博識だ
けれども,あなたの知識は 完全にあなたの実存を塞いでしまってはいない
そこには,まだいくつかの窓が残っている
私は 一年の間 それらの窓を磨いてみたい
そうすれば,われわれの出会いや 話し合いや共存の可能性が出てくる
一年間 ここにいてごらん 」


これは奇妙なことだった
シャーリプトラは 国中を旅して 人々を打ち負かしてきていた
インドでは それは 一種のおきまりだったのだ
博識な人たちは
国中をめぐり歩いて論敵を打ち負かすのをつねとしていた
たいそうな討論や議論
ラソン討論会 ーー

そして,そのことは最大の行いのひとつと考えられていた
もし誰かが あらゆる学者たちを打ち負かし
国中に 勝利の名のりを上げたならば
それはひとつの大きな エゴの満足だった
その人は 王様たちや皇帝たちよりも 大物と見なされた
その人は 長者たちよりも 大物と見なされた


シャーリプトラは その旅の最中だった
そして,当然のことながら
もし 仏陀を打ち負かさなければ
自分を 勝者とふれまわることはできない
だから,彼はそのためにやって来たのだ
そこで彼は言う
「いいでしょう 一年 待たなければいけないのなら 待ちましょう」


そして,一年間
彼は 沈黙のうちに仏陀とともに坐っていた
一年の間に その沈黙は 彼の中に定着した

そして,一年後 仏陀は彼に尋ねた
「 さあ
あなたは議論して 私を打ち負かせるよ,シャーリプトラ
私はあなたに 打ち負かされるのなら本望だ ! 」

すると,シャーリプトラは笑って
仏陀の足に触れると こう言った
「 この一年の間 沈黙し,あなたの話を聴いているうちに
何回か私に洞察が訪れました
私は 競争相手としてやっては来ましたが
一年間 ここで坐っている間に
どうせいるならこの男の言っていることを聴いてみようじゃないかという気になりました
そこで,好奇心から私は 耳を傾けはじめました
けれども,ときとして あなたが私の中に差し込んできた
あなたが私のハートに触れた
そして,あなたが私の 内なるオルガンを奏でた瞬間がありました
そして私は その調べを 聞いてしまったのです
あなたは 私を 打ち負かさずして打ち負かしてしまいました 」


シャーリプトラは 仏陀の弟子となり
彼の五千人の弟子たちも 仏陀の弟子となった
シャーリプトラは当時の最も著名な学者のひとりだった
この経文は そのシャーリプトラに向けられている


“ ここでは,おおシャーリプトラよ,形象は 空(くう)であり,そしてまさに空そのものが形象である。 空は形象と異ならず,形象は空と異ならない。 およそ形を持ったものはすべて空であり,空なるものはすべて形象である。 同じことが感覚,知覚,衝動,そして意識についても真である。 ”


“ ここでは,おおシャーリプトラよ・・・ ”
“ ここでは ”という言葉で 仏陀は何を意味しているのだろうか ?
彼は 彼の空間(スペース) を意味しているのだ
彼は こう言う
「私の世界の視界(ヴィジョン) から見たら
その超越的な立場から
私が存在している空間(スペース) と
私が存在している永遠から見たら・・・」

“ ここでは,おおシャーリプトラよ,形象は空であり,そしてまさに空そのものが形象である ”

これは世にある最も重要な所説のひとつだ
仏教の アプローチ全体が これに拠って立っている
顕在は非顕在である
形象というものは,空そのものの 一形態以外の何ものでもない
そして,空もまた形象の 一形態
一可能性以外の何ものでもない ーー
この声明は非論理的だ
明らかにナンセンスに見える
どうして形象が 空でなどあり得る ?
その二つは 正反対だ
どうして空が 形象であり得る ?
その二つは 対極だ


われわれが この経典に正しくはいってゆく前に
ひとつ理解されねばならないことがある
仏陀は 論理的じゃない
仏陀弁証法的なのだ
リアリティーに至る 二つの道がある
ひとつは論理的なもの
そのアプローチは,西洋において アリストテレスを父としている
それは ただただ直線で,真一文字に進む
それは けっして反対のものを 許さない
反対のものは 切り捨てられねばならない

このアプローチは
Aは Aであって,けっしてAでないことはないのだ と言う
AがAでないことは あり得ない

これがアリストテレス論理の公式だ
そして,それは完璧に 正しく見える
なぜならば,われわれは皆
高校や大学で そのロジックを叩き込まれてきたからだ
世界は アリストテレスによって支配されている

AはAであって,けっしてAでないことは ない ーー


リアリティーに向かう 第二のアプローチは 弁証法的アプローチだ
西洋においては
そのアプローチは ヘラクレイトスヘーゲルの名前と結びついている



(10)へ 続く