saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第10話 ーーーQ&A 最初の質問 02

(“ それゆえに, おおシャーリプトラよ, 形象は無であり, 無は形象である……”)


サンニャースとはわれわれが昨日話していたものにほかならない
スヴァーハ
ハレルヤーーー
それは在ることのよろこびなのだ

さて,どうして在ることのよろこびを定義することなどできよう ?
それは定義され得ない
なぜならば
ひとりひとりの在ることのよろこびは,それぞれ違うだろうからだ
私の在ることのよろこびはあなたのよろこびや実存とは違うはずだ
そのよろこびは同じだろう
その味は同じだろう
だが,開花は違うはずだ
ハスの花
バラの花
マリーゴールドーーー
彼らはみな花には変わりない
そして開花というそのプロセスは同じだ
けれどもマリーゴールドはそれなりの花開き方をし
バラはそれなりの
そしてハスはそれなりの花開き方をする
彼らの色は違うだろう
彼らの表現も違うだろう
ただしそのスピリットは同じだ
そして彼らが花咲くとき
彼らが風とささやくことのできるとき
彼らがその香りを空に向かって分かち合うことのできるとき
彼らはみなよろこびにあふれている


ひとりひとりのサンニャーシンは,それぞれ完全にユニークな人物だろう
私は社会なんかに興味はない
私は集合性などに興味はない
私の興味は絶対的に〈個〉の中にある
あ な た の中に !


そして,心(マインド)が失敗に終わったところを
瞑想は成功することができる
なぜならば
瞑想とはあなたの実存におけるラディカルな革命だからだ
政府を変える革命じゃない
経済を変える革命じゃない
あなたの意識を変える
あなたを精神圏からキリスト圏へと変身させる
あなたを寝ぼけた人物から目覚めた魂へと変化させる革命だ
そして,あなたが目覚めたとき
あなたのやることはすべてよい


それが私の善や徳の定義だ
目覚めた人物の行為には徳がある
そして目覚めていない人物の行為は罪悪だ
罪と徳についてほかの定義など何もない
それはその人による
その人の意識
その行為に持ち込むその人の質ーーー
だから,ときには同じ行為が有徳で
同じ行為が罪悪だということも起こり得る
その行為は見た目には同じかもしれない
が,その行為の背後にいる人たちは違うかもしれないのだ


たとえば
エスは手に鞭を持ってエルサレムの寺院にはいり込み
両替商どもを追い出した
エスは彼らの両替台をひっくり返した
ひとりで
丸腰で
彼は全部の両替商たちをその寺院から放り出した
それはとても暴力的に見える
鞭を持って人々を追い出すイエスーーー
だが,彼は暴力的なのではなかった
レーニンが同じことをやったら暴力的だろう
そしてその行為は罪悪だろう
エスがその同じ行為をすると徳がある
彼は愛から行為しているのだ
彼はケアーする
彼はそれらの両替商たちのことも気づかっているのだ !
彼の行為は
彼の心配り,関心,愛,覚醒から出ているのだ
彼が思いきった行為に出るのは
彼らにひとつのショックを与えて
何らかの変化が可能な状況をつくり出すにはそれしかないからなのだ


行為は同じであり得る
しかし,もしその人が目覚めていたら
その行為の質が変わってくる


サンニャーシンとはより深い油断のなさの中に生きる人間を言う
そして覚醒を通して存在する人たちが増えれば増えるほど
よりよい世界が生まれるだろう
“ 文明 ” というのはまだ起こっていない
誰かがウェールズ公に
「文明についてどうお考えになりますか ? 」と問いかけたという
するとウェールズ公はこう言ったと伝えられている
「それはいい考えだ,誰かそれを試してみる必要があるね」,と
それはまだ起こってはいない


サンニャースとはほんのはじまりにすぎない
人々が自分自身でいる自由を持った
まったく新しい種類の世界の種なのだ
人々が圧迫されず
かたわにされず
麻痺させられない世界
人々が抑圧されず
罪悪感を感じさせられることのない世界
よろこびが受け容れられる世界
快活さこそがルールである世界
深刻さが消え失せている世界
深刻ならざる誠実さが
遊びの心がはいっている世界ーーー
そうしたものは指針になり得る
月を指す指だ


第一に 経験に対してオープンであることーーー

人々は普通閉じている
彼らは経験に対してオープンじゃない
何を経験するよりも先に
彼らはもうそれについて先入観を持っている
彼らはそれを経験したがらない
彼らは探検したがらない
これはまったくの愚だ !


ある男がやって来て瞑想したがる
そして,もし私が行って瞑想するように話すと
彼は言う
「踊ったからってどんな成果があるんですか ?
どうして踊りから瞑想が出て来得るのですか ? 」
私は彼に聞く
「あなたはいままでに一度でも踊ったことがあるのかね ? 」
「いいえ一度も」と彼
さあ,こういうのが閉じた心(マインド)だ
開かれた心(マインド)はこう言うだろう
「オーケー,はいって行ってみます
もしかしたら踊ることでもそれは起こるかもしれません」
彼は先入観を持たずにその中にはいって行く開かれた心(マインド)を持っている
たとえこの「どうして踊りから瞑想が起こり得るのか ? 」と言い張る男が説き伏せられたとしても
彼の頭の中には
「どうして瞑想が踊りから出て来得る ? 」というこの考えが詰まっているに違いない
そして, そ れ は 彼に起こりはすまい
そして,それが起こらないとなると
彼の古い先入観はなおさら強められてしまう
しかし,それが起こらなかったのは
実はその先入観のせいなのだ
これが閉じた心(マインド)の悪循環だ
彼は観念で一杯になってやって来る
彼は既製品でやって来る
彼は新しい事実に対する用意がない
そして世界には絶えず新しい事実が雨あられと降り注いでいる
世界は変わり続けている
しかし,閉ざされた心(マインド)は過去にへばりついたままだ
そして,世界は変わり続け
毎瞬のように何か新しいことが世界に降りて来る
〈神〉は世界を何度でも何度でも新しく塗り変え続けている
それなのに,あなたは
自分の古い死んだイデオロギーを頭に乗せて歩き続けているのだ


からし
サンニャーシンの第一の特徴は経験に対してオープンであることだ



(03)へ続く