saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第10話 ーーー Q&A 最初の質問 01


最初の質問 ーーー(01)

“ サンニャーシンには どんな特徴があるのですか ? ”



サンニャーシンというものを定義するのは非常に難しい
まして,私のサンニャーシンたちを定義しようとしたら
それはなおさらだ


サンニャースとは
基本的に,一切の枠づけに関するひとつの反逆を言う
それがために定義するのが困難なのだ
サンニャースとは生を枠づけされずに生きる生き方だ
サンニャースとは
性格がないというひとつの性格を持つことだ
性格がないということで私が意味するのは
あなたはもう過去に依存しないということにほかならない
〈性格〉とは過去を意味する
あなたが過去に生きてきた生き方
あなたがそれを習慣にしてしまっている生き方
あなたの習慣や条件づけや信条
そしてあなたの経験のすべて
それがあなたの性格の何たるかだ
サンニャーシンとはもう過去の中に
あるいは過去を通して生きない者
瞬間に生きる者を言う
したがって予知不能でもある
性格を持った人間というのは予知可能だ
サンニャーシンは予知不能
なぜならば,サンニャーシンとは自由なのだからーーー
サンニャーシンとは自由であるだけじゃない
彼が 自由 そ の も の なのだ
それは生ける反逆だ

だが,それでも試みてはみよう
いくつかのヒントは与えられ得る
正確な 定 義 じゃない
いくつかの指標
月を指す指だ
そういう指に捕われないこと
そうした指は月を定義するものじゃない
それらは長いかもしれない
短いかもしれない
それらは繊細かもしれないし
それらは醜いかもしれない
それらは白いかもしれないし
それらは黒いかもしれない
それらは健康そうかもしれないし
それらは病気かもしれない
が,そんなことは問題じゃない
それらはただ単に指し示しているだけだ
指など忘れて月を見るがいい


これから私がやろうとしているのは〈定義〉じゃない
それはこの場合に限っては無理な相談だ
そして実際のところ
定義というのは生きているどんなものについても不可能なものなのだ
定義というのは何か死んでいるもの
もう成長しないもの
もう花咲かないもの
もう何の可能性も潜在性もないもの
くたびれて気の抜けたものについてのみ可能なものだ
それであれば定義は可能だ
死人は定義できる
が,生きた人間は定義できない


生とは
根本的に,新しいことがまだ可能だという意味なのだ
だから,これから言うようなことは〈定義〉じゃない


古いサンニャーシンにはひとつの定義がある
ごく明確だ
それが死んでいるのはそのせいなのだ
私は私のサンニャース
とくにこの理由で “ネオ(新しい) - サンニャース ” と呼ぶ
私のサンニャースはひとつの開幕
ひとつの旅
ひとつのダンス
知られざるものとのひとつの 情 事
〈全体 whole〉とのオーガズムが可能な関係を目指した
存在そのものとのひとつのロマンスにほかならない
そして,世にあるほかのすべては失敗に終わっている
定義されたもの
明快だったもの論理的だったものは何もかも失敗に終わっている
それらは実に明快だった
それらは人間の未来のための青写真だった
それがすべて失敗に終わっている
あらゆるプログラムが失敗に終わっている


サンニャースはもう,ひとつのプログラムじゃない
それは探検だ
プログラムじゃない
あなたがひとりのサンニャーシンになるとき
私はあなたを自由の中へとイニシェート(手引き)するのであって
ほかの何ものにでもない
自由であるというのは大変な責任だ
なぜならば
そのときあなたは自分自身の内なる実存
自分自身の意識以外には何ひとつ寄りかかるものを持たないからだ
あなたは何ひとつつっかい棒として,支えとして持っていない
私はあなたのつっかい棒や支えの一切を奪い去る
私はあなたをひとりで残すのだ
私はあなたをまったくひとりで残す
そのひとりぼっちの中に
サンニャースという花がある
そのひとりぼっちが,ひとりでにサンニャースという花へと花開く
サンニャースとは無性格性だ
それは何の道徳も持たない
それは不道徳じゃない
それは無道徳なのだ
あるいは,それは
内からやって来るのであって外側からは絶対に来ることのない
ひとつのより高い道徳を持っていると言ってもいい
それは外側からのどんな押しつけも許さない
なぜならば外側からのあらゆる押しつけというものは
あなたを奴婢に,奴隷に改造してしまうからだ
そして,私の努力は
あなたに尊厳を,栄光を与えてあげることだ
私のここでの努力は
あなたに光輝を与えてあげることなのだ


ほかのあらゆる努力はみな失敗に終わっている
それは避け難いことだった
なぜならば
その失敗は内蔵されたものだったからだ
それらは全部枠づけ志向だった
そして,あらゆる種類の枠づけというものは
遅かれ早かれ人間のハートに重たくのしかかる
あらゆる枠づけはひとつの牢獄になってしまう
そして,いつかある日
あなたはそれに対して謀反を起こさなくてはならなくなる
歴史をさかのぼって観察したことがないだろうか ?
それぞれの革命は
必ず一転して抑圧的なものになる
ソヴィエトでもそれは起こった
中国でもそれは起こった
どの革命の後でも革命家は反革命家になる
一度権力を持つと
彼には社会に押しつけるべき彼なりの枠があるのだ
そしてひとたび彼がその枠を押しつけだすと
もとの奴隷制は新種の奴隷制へとすり変わる
だが,けっして自由にはならない
あらゆる革命が失敗に終わっている


サンニャースは〈革命〉じゃない
これは〈反逆〉だ
革命というのは社会的な,集合的なものだ
反逆は個的だ
われわれは社会にどんな枠をはめることにも興味ない
枠はもうたくさん !
枠など全部さよならしようじゃないか
われわれは世界に,自由に動きまわる〈個〉たちを望む
意識的に動きまわる
もちろんだ
そして,彼らの責任は彼ら自身の意識を通してやって来る
彼らは正しく振舞う
ある特定の掟に従おうとしているからじゃない
彼らは正しく振舞う
彼らは的確に振舞う
それは彼らがケアーするからだ
ご存じかな ?
この “的確(accurate)” という言葉はケアー(care)から来ている
“的確な” という言葉は
語源的に “〜に心を配る” という意味なのだ
何かについて心を配るとき
あなたは的確だ
誰かについて心を配るとき
あなたはその人間関係において的確なのだ


サンニャーシンとは,自分自身についてケアーする者
そして自然にほかの誰にも心を配る者を言う
なぜならば
あなたはひとりだけで幸福になるわけにはいかないからだ
あなたはハッピーな世界の中で
ハッピーな空気の中ではじめてハッピーになれる
もし誰も彼も泣きわめき,涙を流し,みじめにしていたら
ハッピーでいることはとても難しい
だから幸福について
彼自身の幸福について心を配る者は
ほかの誰もの幸福について気づかうようになる
なぜならば
幸福というのは幸福な空気の中ではじめて起こるものだからだ


けれどもこの心配りはいかなるドグマのせいでもない
それはあなたが愛するからこそそこにあるのだ
そして最初の愛は,自然あなた自身に対する愛だ
そうしたとき
ほかのいろいろな愛は後に続いて来る


ほかのさまざまな努力は
それらが心(マインド)志向であったために失敗に終わった
それらは思考プロセスに基盤を置いていた
それらは心(マインド)の結論でしかなかったのだ
サンニャースは心(マインド)の結論じゃない
サンニャースは思考志向じゃない
それは考えることなどに何の根も持ってはいない
サンニャースとは洞察性を言う
それは瞑想であって心(マインド)じゃない
それはよろこびに根ざしている
考えることにじゃない
それは思いなど見出せないようなあの覚醒に根ざしている
それは選択じゃない
それはあらゆる思考の放棄なのだ
それは〈無〉から生きるということにほかならない


“ それゆえに, おおシャーリプトラよ, 形象は無であり, 無は形象である……”


(02)へ続く