saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第10話ーーー Q&A 最初の質問 08

四番目は自由の感覚だ

サンニャーシンは自由であるばかりじゃない
彼が自由そのものなのだ
彼はつねに自由な生き方をする
自由というのは放蕩を意味するのじゃない
放蕩というのは自由じゃない
放蕩というのは隷属に対するただの反動にすぎない
あなたは反対の極端に走る
自由というのは反対の極端じゃない
それは反動じゃない
自由とはひとつの〈洞察〉だ

「いやしくも い る のだったら
自分は自由でなければならない
ほかの生き方など何もない
もし教会に
ヒンドゥー教に,キリスト教に,回教に取り憑かれすぎていたら
自分は い る こともできない
そんなことをしたら
みんなが自分のまわりに境界線をつくり出し続けるだろう
みんなが自分をかたわのような状態に強要し続けるだろう
自分は自由でなければならない
自分は自由でいるというこの冒険を冒さなければならない
自分はこの危険を冒さなければならないーーー」


自由というのはそんなに便利なものじゃない
そんなに快適なものじゃない
それはきわどいものだ
サンニャーシンはその冒険を冒す
といっても彼が誰かれかまわず争ってばかりいるという意味じゃない
それは法律が「右側通行」とか「左側通行」と言ったら
彼はそれに逆らうという意味じゃない
そうじゃない
彼は些細なことなど気にしない
もし法律が「左側通行」と言うのなら
彼は左側を通る
そんなことは問題じゃないからだ
それは隷属とは違う
だが,大切な本質的な物事については……
もし父親が
「金持ちでひと財産ころがり込むからこの女と結婚しろ」と言っても
彼はノーと言うだろう
どうして愛してもいない女性と結婚できるものか ?
そんなことをしたらその女性に対して失礼になる
もし父親が
「お前はキリスト教の家庭に生まれたんだから
日曜日には教会に行け」と言っても
彼はこう言うだろう
「その気になったら行くでしょう
あなたが言ったからといって行きはしません
生まれは偶然です
そんなことはたいして関係ありません
教会というのはとても本質的なことです
だからこそ,もしその気になったら行きましょう」

私は教会に行くなと言っているのじゃない
ただ,本当にそのフィーリングが起こってからはじめて行きなさいと言っているのだ
そうしたとき,そこにはひとつの〈合一(コミュニオン)〉があるに違いない
そうでなかったら何も無理して行く必要はない


本質的な物事について
サンニャーシンはつねに彼の自由を不可侵なものとして守ることだろう
そして,自由を尊重するがゆえに
彼は他人の自由をも尊重するだろう
彼はその人が誰であれ
けっして誰の自由も侵害すまい
もしあなたの奥さんが誰かと恋に落ちたとしたら
あなたは傷つくだろう
あなたは悲しみの涙を流すだろう
だが,それはあなたの問題だ
あなたは彼女を妨害しはすまい
「やめてくれ !
苦しくてしょうがないから」などとは言うまい
あなたはこう言うだろう
「これはきみの自由だ
もしぼくが苦しむとしたら
それはぼくの問題だ
ぼくはそれと取り組まなくちゃならない
ぼくはそれに直面しなくてはならない
もしぼくが嫉妬を感じるとしたら
ぼくは自分の嫉妬を厄介払いしなくちゃならない
でも,きみはきみの道を行けばいい
それはぼくを傷つけるけれど
ぼくはきみが誰かと行ってしまったりしなければよかったとは思うけれど
でも,それはぼくの問題だ
ぼくにはきみの自由を侵害することはできない」


愛というのは
相手に自由を許すほどに相手に対して敬意を払うものだ
そして,もし愛が自由を許さないとしたらそれは愛なんかじゃない
それは何かほかのものだ


サンニャーシンは彼自身の自由に関して限りない敬意を払う
彼自身の自由に関してとても気を使う
そして他人の自由に関してもまたしかり


この自由の感覚が彼にひとつの〈個〉性を与えてくれる
彼はただの集団の心(マインド)の一部じゃない
彼にはある種のユニークさがある
彼の生き方
彼のスタイル
彼の雰囲気
彼の個性ーーー
彼は彼自身の存在のしかたをする
彼は彼自身の う た を愛する
彼にはある主体性の感覚がある
彼は自分が誰だか知っている
彼は自分が誰であるのかという彼の感覚を深め続けてゆく
そして彼はけっして妥協しない
独立
反逆ーーー
覚えておきなさい “ 革命(revolution) ” じゃない
“ 反逆(rebellion) ” だ
それがサンニャーシンの特徴だ
そしてそこには大きな違いがある

“革命” というのはたいして革命的じゃない
革命も,その同じ枠の中で作用し続けるのは変わらない
たとえば,インドでは何世紀にわたって不可触賤民は
ーーー 一番低いカーストだが ーーー
寺院に立ち入ることを許されなかった
バラモンたちは絶対に彼らを寺院に入れさせなかった
彼らがはいって来たらその寺院は汚れてしまう
何世紀にもわたって
インドでは不可触賤民は寺院にはいったことがない
これは醜悪だ
そうしたところへ,マハトマ·ガンディーがやって来た
彼は大いにがんばった
彼は大奮闘をした
彼は不可触賤民たちが寺院に立ち入りを許可されることを求めた
彼の一生がそのための奮闘だった
それは革命的だ
が,反逆的じゃない
なぜ革命的なのか ?
だとしたら反逆とは何なのか ? ーーー


ある人が J. クリシュナムルティ
不可触賤民が寺院に立ち入ることを認めさせようとするガンディーの奮闘について尋ねた
彼は
「しかし神は寺院になんかいやしないよ」と言った
これが反逆だ
ガンディーのアプローチは革命的ではある
が,彼もやはり神が寺院の中にいると信じて疑わない
バラモンたちとご同様だ
彼は,人々が寺院に行くことがとてもとても重要だ
もし寺院に行かなかったら彼らは神をのがすに違いないと信じているそれがバラモンたちの考え方だ
それが不可触賤民たちがはいるのを抑圧した
はいるのを禁止した社会の考え方だ
神が寺院に住んでいるというその考え方は変わらない
そして寺院の門をくぐる者たちは神に近づく
もちろんだ
そして,それを許されない者たち
彼らはのがすだろうーーー
ガンディーは革命家だ
しかし,革命というのはその同じ枠組みを信じている
それはひとつの反動にすぎない


クリシュナムルティは反逆的だ
彼は言う
「しかし神は寺院の中になんかいやしない
だとしたらなんで構う ?
バラモンがそこに立ち入ろうが
不可触賤民が立ち入ろうが
なんで構う ? 」
それは愚かしい
あらゆる革命は反動にほかならない
一定のパターンに対する反動だ
いつであれあなたが反動するとき
それはたいした革命じゃない
あなたはその同じパターンを信じ込んでいるのだからーーー
もちろんあなたはそれに逆らう
だが,奥深いところであなたが信じている根底は同じなのだ

ガンディーはバラモンたちが大いに楽しんでいる
彼らばかりが神を独占しすぎていると思っていた
それが,不可触賤民たちときたら何もかも奪われているーーー
しかし,彼はバラモンたちをよく見ていない
何世紀も何世紀も
彼らは寺院で拝んできている
ところが,その彼らだって何ひとつ得てやしないのだ
さあ,これは馬鹿げている !
寺院の内側にいる者たちが何も得ていないのに
なんで構う ?
そして,なんでわざわざ中にいない人たちを連れこむことがある ?
それじゃまるで意味をなさない


サンニャーシンは反逆的だ
反逆という言葉で私の言っているのは
彼の視野(ヴィジョン)はまったく違っているという意味だ
彼は同じ論理では,同じ枠組みでは
同じパターンでは動かない
彼はパターンには逆らいはしない
なぜならば,もしある特定のパターンに逆らうとしたら
あなたはそれと戦うためのまた別なパターンをつくり出さなくてはならないだろうから
そして,パターンなどすべて似たようなものなのだ
サンニャーシンとはあっさりとすり抜けている者を言う
彼はパターンに逆らいはしない
あらゆるパターンの愚かしさを理解してしまっている
彼はあらゆるパターンの馬鹿馬鹿しさを見抜いている
そして,彼はすべり抜けているのだ
彼は反逆的だ



五番目
創造性ーーー
古いサンニャーシンはとても非創造的だった



(09) へ続く