saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第3話 ーーー 知識は禍いなり(11)

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そして,そのことが人間に多くの問題をつくってきた
それも,アリストテレス流ではとうてい解決のつきそうもない難問の数々を ーー


男は ただ男でいるように教え込まれてきた
けっして自分の中の女っ氣など かけらも見せない
けっしてハートの 柔らかさの かけらも見せない
けっして どんな受容性も見せない
いつも攻勢に出る
絶対に泣かない,絶対に涙を流さない

男は そう教え込まれてきた
なぜならば,涙というのは女性的なものだからだ

女は どんな形であれ
けっして 男のようにならないように教え込まれてきた
けっして 攻撃性を見せない
けっして 自分を表現しない
いつも受け身で,受容的なままでいる ーー
これは 現実(リアリティー) に 反している
そして,これは男女両方を かたわにしてしまっている

よりよき理解を持った,よりよき世界においては
男は両方であり,女も両方であるだろう
ときには 男も女になる必要があることがあるからだ
男も 柔らかくなる必要のある瞬間というものがある
優しい瞬間,愛の瞬間 ーー
そして,女が 自分を表現したり
攻撃に出る必要がある瞬間 というものもある
怒り,防衛,反抗 ーー

もし女の人が ただ受け身なだけだったら
彼女は 自動的に奴隷になってしまうだろう
受け身の 女の人というのは
放っておいても 奴隷になる傾向がある
それが時代を問わず 起こってきたことだ

そして攻撃的な男というものは
ーーー 断固として攻撃的で
絶対に 柔らかくならない手合いのことだが ーー
放っておけば 必ず 戦争をやらかす
世界中に蔓延している ノイローゼ,暴力 ーー


男は ずっと闘ってきた
休む間もなく 闘ってきた
男が 地球上にいるのは ただ闘うためのようにも思われる
三千年の間に なんと五千の 戦争があった !
戦争は どこかしらで必ず続いている
地球は 戦争なしでは
一瞬たりとも 全体性も持てなければ 健康体にもなれない
それが韓国であるか,ベトナムであるか,イスラエルであるか
インドとパキスタンであるか,バングラデシュであるかは また別として
どこかしらで 大虐殺は継続しなければ済まない
男は 殺さないと 気が済まない
男でいるためには,彼は殺さないと気が済まない
エネルギーの 75パーセントが 戦争目的に
より多くの爆弾を作ることに注ぎ込まれている
水素爆弾中性子爆弾,等々,等々 ・・・
人間がこの地上にいる 全目的は戦争であるようにさえ思われる !


世の中で 一番尊敬を受けるのは戦争の英雄たちだ
戦争の政治家たちが 歴史の上に大きな名を残す
アドルフ・ヒトラー,ウインストン・チャーチル,ヨセフ・スターリン毛沢東 ーー
こういう名前は必ず残ることだろう
なぜか ?
それは彼らが 大きな戦争を戦ったからだ
彼らは 破壊をなした
侵略的なものだったか,防衛だったか
それは たいしたポイントじゃない
とにかく,彼らは戦争をやった

それに,誰が 侵略者だったかなど 誰も知りやしない
ドイツが侵略者だったかどうか ーー
それは すべて 誰が歴史を書くかに かかっている
誰でもいい
勝ったものが歴史を書けば
相手が 侵略者だったと立証するだろう

もしアドルフ・ヒトラーが 勝利をおさめていたら
歴史は全面的に 違うものになっていただろう
そう,ニュールンベルグ裁判は あったろう
ただし,そこで裁かれるのは
アメリカとイギリスとフランスの 将軍たちと政治家たちだっただろう

そして,歴史は ドイツによって書かれたことだろう
当然,彼らは 違った視野を持っていたに違いない


誰ひとり何が真実であるかなど知りやしない
ひとつだけ確かなことがある
男は彼の全エネルギーを戦争努力につぎ込んできたということだ
その理由?ーー

その理由は,男がただ男でいるように教え込まれてきたことだ
彼の〈女〉は,否定されてきた
そこで,誰ひとりとして全体的な男がいない !
そして,女についても 同じこと
誰ひとりとして 全体的な女はいない !
彼女は彼女の 男の部分を否定されてきた
小さな子供だった頃から
彼女は 男の子たちと喧嘩することができなかった
木のぼりができなかった
彼女は 人形と遊ばなければいけない
彼女は おままごとをしなければいけない
これは とてもとても歪んだヴィジョンだ
男は両方であるし,女もまたしかり

そして,本物の調和のとれた人間をつくり出すには
その両方が必要なのだ
存在は 弁証法的なものであって
反対はただの反対じゃない
それらは互いに補足的なものでもあるのだ


仏陀は言う
“ おおシャーリプトラよ・・・”
私の世界においては,シャーリプトラよ
私の空間においては,私の時間においてはシャーリプトラよ
梯子の 第七段目にあっては
この 無心 (ノーマインド) にあっては
このサマーディの境地にあっては
このニルバーナの,悟りの境地にあっては

“ 形象は空であり ”ーー
男は女であり,女は男である
そして生は死であり,死は生である
反対は反対ではない,シャーリプトラよ
それらは 互いに貫き合い
それらは 互いを通して存在している ーー
この 基本的洞察を 示すために仏陀は言う
形は無形であり,無形は形なのだ,と
非顕在は顕在となり
顕在は ふたたび非顕在となる
それらは 違うものではないシャーリプトラよ
それらは ひとつなのだ

その 二元対立は 見かけのものにすぎない
奥深く,それらは ひとつなのだ


“ 空は形象と異ならず,形象は空と異ならない。 およそ形を持ったものはすべて空であり,空なるものはすべて形象である。 同じことが感覚,知覚,衝動,そして意識についても真である。 ”


全生命と全存在は相反する対極によって成り立っている
が,それらが異なるのは 表面上でしかない
そうした反対どうしは 私の両手のようなものだ
私は その二本をお互いに 対立させることもできる
一種の 争いのようなもの
二本の間の戦いを 演出することさえできる
けれども,私の左手と右手は 両方とも私の手だ
私の中では それらは ひとつなのだ


まさにその通りのことが 真 相 なのだ

なぜ仏陀は このことをシャーリプトラに言っているのだろうか ?
それは,もしこれを理解したならば
あなたの 懸念が 消え失せるからだ
そうしたら何の懸念もない
生は 死であり,死は 生である
い る ことが, い な く なることへの道であり
いなくなることが いることへ向かう道だ
それは 同じゲームなのだ
そうしたら,そこには何の恐怖もない
そうしたら,そこには何の問題もない
その洞察とともに
ひとつの 大いなる受容が湧き上がる


(12)へ 続く