saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第3話 ーーー 知識は禍いなり(10)

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リアリティーに向かう 第二のアプローチは 弁証法的アプローチだ
西洋においては
そのアプローチは ヘラクレイトスヘーゲルの名前と結びついている

弁証法的プロセスは
「 生は対極を通じて
反対のものどうしを通じて動いてゆく 」と言う

ちょうど川が
互いに向かい合った 二つの岸の間を流れてゆくように ーー
けれども
それらの向かい合った岸が なかったら川は流れられない

これは より実存的なものだ
電気にも 二つの極がある
陽極と陰極 ーー
もしアリストテレスの論理が 存在を代表するものだとしたら
そのときには 電気はごくごく非論理的なものになる
そのときには 神自身が非論理的だ
なぜならば,神は正反対のものである 男と女の出会いから
新しい生命を生み出すのだから
陰と陽
男性と女性 ーー

もし神が アリストテレス論理の中で
直線的論理の中で育てられてきたとしたら
そのときには,同性愛が正常で
異性愛は倒錯だということに なってしまうだろう
そのときには,男は 男を愛し,女は 女を愛するに違いない
そうしたら,反対のものどうしが出会うことはできない


しかし,神は弁証法的だ
反対のものどうしが出会っている

あなたの中では 生と死が出会っている
あらゆるところで反対のものが 出会っているのだ !
昼と夜
夏と冬
とげと花
その二つが出会っている
それらは同じ枝の上にある
それらは同じ源から出てくるものだ
男と女
青春と老い
美と醜
肉体と魂
世間と神 ーー
すべて 正反対のものだ
これは正反対のものの醸し出す ひとつの交響楽(シンフォニー) だ
正反対のものが ただ出会っているだけでなく
大いなる交響楽(シンフォニー) を生み出している
正反対のもののみが交響楽(シンフォニー) を生み出せるのだ
さもなければ,生は単音であって 交響楽(シンフォニー) ではあるまい
生は ひとつの退屈になってしまうだろう
もし,ただひとつの音が 絶え間なくくり返されるだけだったら
それは いやでも退屈を生み出さざるを得ない
けれども,世の中には反対のものがある
命題が 反命題と出会い,ひとつの統合を生み出している
そして,今度は その統合それ自身が
また ひとつの命題となり,反命題を生み出して
より高次の,より高度の統合が展開される
生命というものは そうやって進んでゆくのだ


仏陀の このアプローチは弁証法的なものだ
そして,それは より実存的であり
より真実で
より確かなものだ


男は女を愛し,女は男を愛する
そこでもうひとつ,また 理解されねばならないことがある
いまや 生物学者たちが言い
そして,心理学者も それに同意するのだが
男は ただ男であるばかりじゃない
彼は また女でもある
そして,女は ただ単に 女であるばかりではない
彼女は 男でもある
だから,男が女に出会うとき
そこで出会っているのは 二人の人間ではなく
四人の人間が 出会っているのだ

男が女に出会っている
が,男は彼自身の中に 隠された女を持っている
同じように,女も彼女自身の中に 隠された男を持っている
その 男と女も また出会っている
その出会いは 二重構造になっているのだ

それは入り組んでいる
より複雑だ
よりもつれ合っている
男は 男と女の両方なのだ
なぜか ? ーー彼は その両方から来ているからだ
あるものは あなたの父親によって あなたに与えられ
あるものは あなたの母親によって あなたに与えられている

あなたが誰であろうと 必ずそうなのだ
あなたの血液の中には
男も流れ込んでいれば 女も流れ込んでいる
あなたは両方でなければならない
なぜならば
あなたは 正反対,対極どうしの出会いなのだから ーー

あなたはひとつの 統合なのだ !
一方を否定して,もう一方だけでいることなど不可能だ
その間違いは ずっと続けられてきた
アリストテレスは あらゆる面で文字通りに従われてきた
そして,そのことが人間に 多くの問題をつくってきた
それも,アリストテレス流では とうてい解決のつきそうもない難問の数々を ーー


(11)へ 続く