saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「究極の錬金術」by OSHO,(01) 翻訳: スワミ.ボーディ.イシュワラ

「無意識との出会い」(01)

 

質問………感覚の本能を例にして考えますと。 無意識のマインドと出会う実際的な方法とは、どんなものでしょうか。 そして感覚の本能から自由になったと、どうやってわかるのでしょうか。 

わかりやすく説明していただけますか ? 

 

 

 無意識とは、実際は 無意識ではない。

無意識とは、意識がより少ないというだけのことだ。

だから、意識と無意識の違いは 正反対のものではなく 度合いの違いにすぎない。

無意識と意識は 関わり合い、つながっている。

それらは 二つの別々のものではない。

だが、我々の考え方は、あらゆる物事を 正反対に分けるという ある種偽りの論理を土台としている。

だが、真実は 決して分けられない。

分けられるのは論理だけだ。

我々の論理とは、「イエス」か「ノー」の どちらかしかない。

我々の論理は、光か闇の どちらかしかない。

論理的に物事を見る限り、その中間は 存在しない。

だが、生は 白でも 黒でもない。

生は 大きく広がっている 灰色の世界だ。

一方の極が 白であり、もう一方の極が 黒だ。

そして生は大きく広がっている 灰色の世界であり 灰色の度合いなのだ。

だが、論理的な思考から言うと、白と黒が現実で 中間は存在しない。

が、生は いつも 二つの極の中間にある。

 

実際、 全ての問題が論理的な問題として捉えられるのではなく、生の問題として捉えられるべきだ。

そして初めて、あなたは 生に対して 何かができる。

この偽りの 論理に余りにも引っ掛かっていると 決して 何ひとつ、問題を解決できないだろう。

 

アリストテレスは明らかに、人間のマインドにとって 最大の脅威と、ブロックとなっている。

なぜなら彼は、世界中を支配しているあらゆる物事を 二つの極に分けるシステムを作り出したからだ。

実際、これは奇妙な事実だ。

我々には、その二つの極の間のリアリティーを表すものがない −−− 言葉さえない。

 

デ・ボノ という近代の 反アリストテレス派の論理家は、「ポー」という新しい言葉を作り出した。

彼は言う

「我々には イエスかノーの 二つの言葉しかない。

その中間で、どちらでもない、という言葉は存在しない。

エスは 一つの極であり、 ノーは もう一つの極だ。

中間の言葉が ない」と。

そこで、彼は 新しい言葉「ポー」を作り出した。

「ポーとは『反対でも賛成でもない』という意味だ。

あなたが何かを言って、 私が ポーといえば、 それは『私は あなたの言っていることを聞いている。 私は それに反対でも賛成でもない。 私は それに判断を下さない』という意味だ

あるいは、 ポーというのは『多分、あなたの言っていることは正しい、 多分、 あなたの言っていることは間違っている。

その両方があり得る』ということだ。

あるいは、 ポーという言葉を使うのは、『あなたの言うことは一つの見方であり、 私が イエスの立場を取ったり、 ノーの立場を取ったりする必要はない。 それは必要ではない』ということを意味している」と。

 

デ・ボノは この言葉を、仮説や可能性というような言葉から考えついた。

この「ポー」は中間的な言葉で、審判、批判、賞賛という重荷が 何一つのしかかっていない。

ちょっと「ポー」という言葉を使ってごらん。

その違いを感じるだろう。

あなたは両極の どちらの立場にも立っていない。

 

私が「意識」や「無意識」と言う時 それは フロイト派の反対という意味ではない。

フロイトにとっては 意識は意識であり 無意識は無意識だ。

その違いは、白と黒、イエスとノー、生と死の違いだ。

私が「無意識」と言うのは「より少ない意識」ということだ。

それらは お互い重なり合っている。

では、無意識と出会うには どうしたらいいのか ? 

フロイトに関する限り、それは 不可能だ。

というのも、それは 無意識だ からだ。

どうして無意識と出会うことができる ? 

その質問は ちょうど誰かが「どうやって暗闇の中で見ることができますか ?」と言うのと同じだ。

その質問は 道理にかなっていないし、無意味だ。

 

もしあなたが「暗闇の中で どうやって見るのですか ?」と質問し、私が「光で見ればいいじゃないか」と 言ったとしたら、質問に まったく何も答えていないことになる。

なぜなら、あなたは「暗闇の中で どうやって見ればいいのですか ?」と 聞いているからだ。

もしそこに 光があれば、暗闇がない −−−

あなたは 光を 見ている。

実際、暗闇では 誰も物を 見ることはできない。

「暗闇」は、その状況では 見ることができない。

あなたが「暗闇」と言う時、何を言っているのだろう ?

その状況では見ることができない、ということだ。

あなたが「光」と言う時、何を意味しているのだろう ?

それは、その状況では 物が見える、ということだ。

実際、あなたは 光を見たことはない。

あなたが見えるのは、物に跳ね返った光だけだ。

光そのものを 見たことはない −−−

誰にも 見ることはできない。

 

我々には、光ではなく 物しか見ることができない。

というのも、物は見ることができる。

そこで我々は、光が そこにあると予想し、推しはかる。

あなたは 暗闇を 見たことはない。

誰も 見た者は いない。

実際、暗闇とは ただの憶測だ。

なぜなら、何も 見える状態ではないからだ。

あなたは、そこに闇が存在すると言う。

誰かが聞いた「闇の中で どうやって見るのですか ? 」

その言葉は 意味があるように見える。

だが 違う、言葉は実に詐欺的だ。

そして言葉を使う時、注意深くならない限り どんな問題も 決して解決できないだろう。

問題の 九十九%は、ただ言葉上の問題にすぎない。

だが、言葉の影響を切り離す方法を知らない限り  本当の問題に取り組むことは決してできない。

 

もしあなたが フロイトに「どのようにして無意識と出会えばいいのですか ?」と聞けば、彼は「それはナンセンスだ。 あなたは無意識とは出会えない。

もし無意識と出会うなら、 それは意識になる。 出会いは 意識下の現象だからだ」と言うだろう。

だがあなたが私に、どうやって無意識と出会うか聞くなら、私は こう言う。

「そう、無意識と出会う方法は ある」と。

私にとって 一番はじめに注意されるべきことは 「無意識」とは単純に「意識が少ない」ということだ。

だから もっと意識的に なれば、無意識と出会える −−−

それは あなた次第だ。

 

第二に、無意識と意識には、決まった境界のようなものは存在しない。

それらは瞬間ごとに変化している −−−

ちょうど 瞳のように。

瞳は 絶え間なく変化し続けている。

光の量が 多ければ、瞳は狭くなっていくし 光の量が 少ないほど瞳は 広がっていく。

瞳は 絶え間なく、外界の光の量に合わせて 大きさを調節している。

だから あなたの眼は、本当は固定されていない。

それは、絶えず変化し続けている。

ちょうど あなたの意識のように。

実際、眼の動きの変化で、意識という現象を理解することは 非常に意味深い。

意識とは 内なる眼であり、魂の眼 だからだ。

ちょうど あなたの眼のように、あなたの意識は 絶えず拡大したり、縮小し続けている。

それは 状況次第だ

 

たとえば 怒っている時、あなたの意識は より少なくなる。

さらに無意識が広がるのだ。

あなたの とても小さな部分だけが 意識として留まる。

時には その小さな部分でさえなくなり  完全に無意識に 陥ってしまうこともある。

が、突然の事故のような状況のもとでは、あなたは道を歩いていて、突然 事故が起こるような気配を感じる。

あなたは 死の縁にいる。突如として意識が覚め、無意識は まったく存在しなくなる。

マインドの全てが意識的になる。

意識には、そういった変化が 絶えず起こっている。

 

 

(01)終わり(02)ヘ 続く