saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「究極の錬金術」by OSHO,(06) 翻訳 : スワミ.ボーディ.イシュワラ

「無意識との出会い」 (06)

(…あらゆる欺瞞が落ちていく。  それが現実の姿だ )

 

だが社会は、あなたが それに気づかないようにするために、無数の層を作り出した。

一度、裸のままの自分、まったくの あるがままの自分を知れば、あなたは 今までと違う人間になり始める。

そうしたら、あなたは 自分を騙せなくなる。

その時、あなたは 自分が何者であるかを知る。

そして自分が 何者であるかを知らない限り  変容されることは 絶対にあり得ない。

なぜなら、その 裸のままの真実においてのみ  ある種の変容が起こるからだ。

その裸のままの真実が、何らかの変容の可能性となる。

 

欺瞞は、全て 変容されない。

 

あなたの本来の顔は、今ここに ある。

そして、あなたは それを変容できる。

実際は、ただ変容させたい というその意志が 変容を引き起こす。

だが、あなたは 変容されない !

偽りの顔を 変容することはできない。

偽りの 顔を変えることは できても、変容はできない。

 

「変える」という言葉で 私が言うのは、偽りの顔を もう一つの偽りの顔に 置き変えられる、ということだ。

泥棒が 僧侶にもなれるし、犯罪者が 聖者にもなれる。

変えること、お面を、顔を取り替えるのは 実に簡単だ。

が、それは まったく変容ではない。

変容とは、真実の姿 そのものになるということだ。

だからあなたが 無意識と 出会い、無意識と 向かい合う時、自己の真実、自己の正真正銘の 実存に直面する。

社会に作り上げられた存在は そこにはない。

あなたの形もない、あなたの顔もない。

自然のままの 力が そこにある。

そして、それらの 自然そのままの力があれば  どんな変容も可能になる。

ただ そう望むだけで そうなる ! 

何も する必要は ない。

ただ、あなたが そう望むだけで 事は起こり始める。

もし、あるがままの状態で 自分自身に向き合えば あなたが望むことは、何でもその通りになるだろう。

 

バイブルの中では、次のように言われている。

「神曰く“光あれと言えば光ありき”」と。

実際には、それらの言葉は 物語だ。

それは、あなたの内に秘められている意志の力の物語だ。

あなたが 自己のありのままの真実、根本的なもの、本質的な力に 遭遇すれば、あなたは創造者、神になる。

ただ声に出して 言う。言葉に出して言うと その言ったことが起こる。

「光ありき」と言えば、そこに 光がある。

だが、無意識と出会う前に、たとえあなたが 暗闇を光に 変えようとしても、それは 無理だ。

何か 宗教的なことが起こるのには  

無意識との出合いが 基本であり、根本だ。

 

 

(06)終わり(07)へ 続く