saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第十章 東洋と西洋を超えて (最初の質問)(01)

最初の質問

愛する和尚、
あなたは、生の謎を解くことに 反対のようです。
これに関連してですが、西洋で行われている アリカ(自己実現のための教育法)、禅、スーフィズムエスト(アーハード・セミナー・トレーニング の略)、超越瞑想などは、東洋神秘主義と西洋科学を総合(ジンテーゼ)するための、起こるべくして起こった運動と言ってよいのでしょうか。



真の総合(ジンテーゼ)であれば、東洋も西洋も 消えるだろう。
総合は、出会いではない。
本当に総合されれば、そこに東洋はなくなる、西洋はなくなる。
それこそ、昨日 私が 超越と言ったことだ。

東洋と西洋は、対極だ。

総合しようとして、東洋から何がしかを取りだし、西洋から何がしかを取りだし、それで ごった煮を作ったら、総合ではなく 折衷になる。
それは 機械的であって、有機的ではない。
物は 一緒にできるが、機械的な統一になる。
しかし、木は 一緒にできない、人間は 一緒にできない。

統一体である木は 成長する、それは木自身の最奥の核に始まり、周囲へ広がっていく。
木は その中心から生まれる。

機械的な統一は 外からできる。
車や 時計なら、組み立てて 一つのものにできる。
だが 時計に 中心はない、車に 中心はない、時計に 魂はない。
時計に魂がない と言われるのは そういう意味、それ自身の中心がない ということだ。
それは 外からの統一だ。
働きを持ち、有用ではあるが。

しかし、木、鳥、人間の 赤ん坊を 一緒にすることはできない。
それらは 成長する。
その統一性は 最奥の核にある。
それらには 中心が ある。

折衷は 機械的な統一、総合は 有機的な成長だ。
だから今現在、エスト、超越瞑想、アリカと銘打って 行われているものは、すべて 機械的統一の 一種だ。

また、 機械的統一には 独自の危険性がある。
最も危険なのは こういうことだ。
東洋は 深い洞察を 宗教にもたらし、西洋は 深い洞察を 科学にもたらした。
西洋人が 東洋を調べようとするときは、科学的な 態度になる。

西洋人は東洋の 科学的な部分しか 理解できない ーー ここのところを わきまえておくように。
だが、 東洋は 科学的な態度を 発展させなかった。
東洋の科学は 非常に原始的で 未発達だ。
宗教的な人が 東洋から西洋に行くと、原始的で未発達な 西洋の宗教を覗き込む。
その人は 宗教的な言語しか 理解できない。

東洋出身の人が 西洋の研究をするときには、西洋の未発達なところ、その弱点から始める。
また 西洋出身の人が 東洋に来ると、東洋の 最も未発達なところから研究を始める。

今、何が起こっているのだろう ?
アリカ、エスト、超越瞑想、他の「霊的な活動」において、西洋と東洋が出会っている。
だが、 期待とは正反対のことが起こっている。
東洋の宗教が 西洋の科学と出会っているのではなく、東洋の科学が 西洋の宗教と出会っているのだ。
無様(ぶざま)な事態だ。


聞いたことがあるに違いない。

あるフランスの女優が、ジョージ・バーナード・ショーに、彼と結婚したいと 言った。
バーナード・ショーは 理由(わけ)を 尋ねた。

女優は答えた、「単純なことですの。私にはとても美しい体が あります。
私の顔、目、体型を 御覧なさい。 完璧でしょう。
そして あなたには、素晴らしい知性、かつてない最高の知性がおありです。
あなたの頭脳と 私の体 ーー 素晴らしい 子供が生まれますわ 」

ジョージ・バーナード・ショーは 言った、
「うまくいかないこともあるんじゃないかね。
私の体と あなたの知性を持つ子供が 生まれるかもしれない 」

これが起こっていることだ !
彼は、「危険です。 確かな保証は 何もありません」と言って 結婚の申し出を断った。

確かに、ジョージ・バーナード・ショーは とても醜い体をしていた。
それに、女優が知性を示したことなど 一度もない。
女優にとって、知性は 疎遠なものだ。
第一、 そうでなかったら どうして女優などなるだろうか。

アリカ、エスト、超越瞑想は、ジョージ・バーナード・ショーと女優との 結婚の副産物だ。
事は まずい方に進んでいる。

これは総合ではない、折衷、ごった煮だ。
それに とても危険だ。

大いなる総合が 必要とされている。
その総合は、運動によって為されることはないだろう。
魂において、総合に達した少数の人物によって為されるだろう。
それは、聖書を読み、バガヴァッド・ギーターを読み、それらの類似点を見つけて 総合する というような問題ではない。
それでは 機械的な 統一になる。
多くの人が それを行ってきた。


バグワンダス博士は、『全宗教の本質的統一』という、きわめて学者ぶった本を書いた。
何から何まで馬鹿げている。
コーランを読み、ヴェーダを読み、聖書を読み、ダンマパダを読み、類似点を見つける。

類似点を見つけるのは至極簡単だ。
だが 本当のところ、コーランが素晴らしいのは ギータにないことが 書いてあるからだ。

素晴らしさは、その独自性にある。
マハトマ・ガンジーのように、あなたも何かを見出したら・・・ガンジーコーランを読み、ギータに似ているところを見出した。
コーランの中に ギータを捜していたのだ。

それは コーランを不当に扱うものだし、失礼でもある。
なぜなら、コーランに 異質なものを押しつけたからだ。

ギータに共鳴していたガンジーは、それに似ていないものは すべて忘れてしまった。
コーランに 異質なものがあることを忘れてしまった。
だが、 その捨てられた ところにこそ、コーランの独自性がある。

キリスト教徒も 同じことをやりかねない。
ギータを 調べて、 キリスト教徒のマインドを満足させるものを 見出す。
ギータの中に 聖書を見出す。
だが、 聖書と まったく異なるところがあるからこそ、ギータは 素晴らしいのだ。
独自性がある、美点は 独自性の中にある。
類似品は 月並みだし、無意味だし、単調だ。

ヒマラヤが素晴らしいのは、アルプスにない 独自なものがあるからだ。
ガンジスが素晴らしいのは、アマゾンにないものが あるからだ。
もちろん、両方とも川なのだから 似ているところは無数にある。
だが、 類似点を探し続けていれば、きわめて退屈な世界に住むことになるだろう。
そういうのは、私の 好みではない。


東洋の聖典と西洋の聖典を調べ、何らかの折衷を 見出せなどと言うつもりはない。
そうではなく、あなたに 実存の内奥に 入ってほしいのだ。

客体を超えれば 西洋を越える。
主体を超えれば 東洋を超える。
すると超越が起こり、そこに 総合が生まれる。
あなたの内部で 総合が 起こったら、それを 外部にも広げることができる。

総合は、本や論文や哲学の 博士論文ではなく、人間の 内部で 為されなければならない。
有機的な統一は、有機的な方法でしか 為し得ない。

それこそ、私が ここでやっていることだ。
あなたが 主体を超え 客体を超えていくように、私は あなたを叩いている。

主体と客体を、内部で出会わせるようなことは 教えていない。
その出会いは、存在に 高みをもたらし得ないからだ。

あなたは 超えていかねばならない、未来の人間は、東洋と西洋を 超えていかねばならない。
両方とも 半分に過ぎない、両方とも偏っている。
私は、東洋も 西洋も 支持しない。
私は 全一的な世界、全体である世界を 支持する。



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