saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第九章 超越するものと一体になる (11)

聖性は その孤独の中にある、その孤独の中に 解放が、解脱がある。
その孤独の中に 涅槃がある、その孤独の中で、はじめて あなたは 真に存在する。


主体と客体は 分割されている。
二元性が、対立、戦い、分割がある。
客体的な人は 何かを取り逃がす ーー 主体を 取り逃がす。
また、主体的な人は 何かを取り逃がす ーー 客体を取り逃がす。

ともに 不完全だ。
科学者も 詩人も ともに不完全だ。
完全なのは 聖なる者だけ、全体なのは聖なる者だけだ。
神聖(holy)なのは、彼が 全体(whole)だからだ。

Holyと いっても、道徳的ということではない。
全体である ということだ。
何一つ 残されているものはない、すべてが 取り込まれている。
その豊かさは全面的なもので、主体と客体の両方が 溶け込んでいる。
だが、 彼は 主体と客体を合わせただけの人ではない。
それ以上だ。

客体は外、主体は内、宗教的なものは超越だ。
超越は 内と外を 併せ持ち、しかも それらを超えている。

このヴィジョンを、私は 霊性と呼ぶ。
超越のヴィジョンだ。

さらに もう少し言おう ーー 客体の世界では、行為が きわめて重要だ。
物的世界に関わるには 行為するしかないから、人は 行動的でなくてはならない。
何かをしなければ、客体の世界で 自分を変えることはできない。

主体の世界では 無為だ。
行為は 重要ではない。
重要なのは 感性だ。
だから 詩人は 怠惰になる。
そして画家も。
偉大な画家、偉大な詩人、偉大な歌手でさえ、一仕事終われば 再び無精者に逆戻りする。
主体の人は、眠たげで、夢を見ているようで、怠惰だ。

客体の人は 活動的で、行為にとりつかれている。
客体の人は いつも何か していなくてはならない、一人で 座っては いられない、休んではいられない。
眠ることはできるが、いったん起きたら 何かしないではいられない。

主体的な人は 非活動的だ。
行動に移るのが とても大変だ。
彼は 空想の世界を楽しむ。
行動しなくとも 空想はできる。
どこへも行かない、目を閉じるだけで、夢の世界が開ける。

宗教的な人の中では、反対のものが 出会っている ーー 行為せずに行為する、行為して 行為しない。
事は為すが、けっして行為者になることがない。

宗教的な人は 神の乗り物、通り道で あり続ける。
中国人が、行為に非ざる行為 ーー 無為と 呼んでいるものだ。
していても していない。
その行為は、遊び心がいっぱいで、緊張や不安や 強迫観念がない。
行為の ないときでも、沈滞してはいない。
座っているとき、横になって 休んでいるときさえ、エネルギーに満ちている。
無気力ではない。
宗教的な人は エネルギーを放っている。
対立物が出会い、高い次元で統一され、あたかも無為の境地にいるように行為できるからだ。
無為の境地に 留まっていられる、だがそれでもあなたは エネルギーを感じる、その実存の周りに 活発な波動を感じる。
どこへ行こうと、人々に 生をもたらす。
その人が いるだけで 死人は生き返り、触れるだけで 死人が息を吹き返す。


エスのような・・・ラザロが 死んだとき、イエスが呼ばれた。
エスは ラザロが眠る墓に行き、「ラザロ、出てきなさい ! 」と言った。
すると死んだラザロが 出てきて、「ここにおります。 あなたは私を 死から呼び戻してくれました。 ただいま、 戻りました」と 言った。

宗教的な人が 活発なのは、行為者だからではなく、無限のエネルギーを 手にしているからだ。
宗教的な人が 活発なのは、何かしなければならないからでも、しようと躍起になっているからでも、くつろげないからでもない。
溢れざるを得ないほどの エネルギーに満ちているから、エネルギーが 多すぎて、留めておけないからだ。

だから静かに座っているときでも・・・仏陀菩提樹の下で静かに座っている、あなたはには 彼の周りで戯れているエネルギーが、大きなエネルギーのオーラが見えるだろう。



(11)終わり・・・(12)へ 続く