saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第九章 超越するものと一体になる (12)

・・・仏陀菩提樹の下で静かに座っている、あなたはには 彼の周りで戯れているエネルギーが、大きなエネルギーのオーラが見えるだろう。


マハヴィーラについて語られた 美しい物語がある。
彼が行くところは どこでも、広い範囲に渡って 生が活気づいたというのだ。
だが、 彼は 活動的な人間ではなかった。
何時間も 何日も、ただ 立っていたり、木の下に座っているだけだった。
ところが、広い範囲に渡って、生が新しいリズムを得て 脈打ちだすのだった。
季節はずれに 木が花を咲かせたり、いつもより早く 木が成長したり、枯れ木に 若芽が吹き出したりしたと言われている。
そんなことが 起こったのかどうかは、問題ではない。
単なる物語なのかもしれない。
しかし、きわめて示唆に富み、きわめて象徴的だ。
神話は歴史的なものではない。
深い意味を持つ象徴だ。
神話は 何かを語る。

この神話は 何を語っているのだろうか。
マハヴィーラは 大量のエネルギーを蓄えていた、エネルギーに 満ちていた、神が 溢れ出ていた。
それで マハヴィーラが行くところ、生はより速く動いた、 ということに他ならない。
彼の周囲にあるもの すべてが、動きを 早めた。
何もしていないのに、そうしたことが起こった。


老子は 言った ーー 偉大な宗教的人物は 何もしないが、その人を通じて 無数のことが起こると。

けっして行為者ではないのだが、その人を通じて 多くのことが起こる。
ただ座っているだけなのに、その実存が 世の出来事に与える衝撃たるや、すさまじいものがある。
誰にも知られずにいるかもしれない。
ヒマラヤの洞窟に座っていて、あなたは 知らないかもしれない。
それでも、あなたの生は 影響を受けるだろう。
鼓動しているからだ。
彼は 新たなエネルギー、新たな生の鼓動をもたらす。
生に 新たな鼓動を 分け与える。
あなたは 彼を知らずにいるだろうが、その恩恵を 受けてきたかもしれない。

対立物は、宗教的存在の中で 融和する。
昼と夜が 出会い、和解する。
男性と女性が 宗教的な人の中で 出会い、和解する。
宗教的な人は アルダナリシュワール ーー 半分が男性で 半分が女性だ。
その 両方だ。
宗教的な人は、どんな男性よりも 強く、かつどんな女性よりも か弱い。
花のように か弱く、剣ほどに 強い。
堅くて かつ柔らかい、その両方だ。
その人は 奇跡、神秘だ。
対立物が 出会うと、その人は 論理を超え、その実存は 逆説的になる。
誰よりも 生き生きとしているが、死んでもいる。
墓場の誰よりも、さらに 死んでいる。
ある意味では 生きていて、ある意味では 死んでいる ーー 同時に、その両方だ。
宗教的な人は 死のアートを知っている、と同時に 生のアートも 知っている。

普通のマインドを持つ 普通の生では、すべてが対立するものに 分割されている。
そのため、対立物に 出会おうとする 大きな力が働く。
男性は 女性を求め、女性は 男性を求める。
陰と陽の輪だ。

宗教的な人間になると、あらゆる探求が 止む。
男性は女性を 見つけてしまった、女性は 男性を 見つけてしまった。
最奥の核において、あらゆるものが溶け 一つになるところ、二元的でなくなるところ ーー アドヴァイタにまで エネルギーが到達した。
あらゆる対立物が 融和する、あらゆる対立物が 解消し 協力が生まれる。
すると、あなたは 家に帰る、もう どこに行く必要もない、探すものもない、欲しいものもない。
これが 神的境地だ。
神は 境地であって 客体ではない。
また、 神は 人でもない。
主体でも 客体でもないからだ。
神は 超越だ。


あなたが 客体の世界にいるなら、私は、「主体を探しなさい。 そこに神がいる」と 言う。
あなたが 主体の世界にいるなら、「さあ、超えなさい。 神は主体の世界にいない、神は 超越している」と 言う。
やがて人は、捨て続けねばならなくなる、落とし続けねばならなくなる。
主体も客体も ないとき、物も思考も ないとき、この世もあの世も ないとき、神が いる。
物も心も ないとき、神が いる。
神は 物でも心でもない。
だが、 神には 物も心もある。
神は 途方もない逆説であり、絶対的に非論理的であり、論理を 超えている。
木や石で 神の像を作ってはならない、観念や知識で 神の像を作ってはならない。
あらゆる象を 溶かしたとき、内 ー 外、男 ー 女、性 ー 死、あらゆる二元性を溶かしたときに残るのが、聖性だ。
さて、物語だ。

盲目となっていたラビのブナムが
ある日、ラビのフィシェルを訪ねた
奇跡によって病を治すというので、フィシェルは
国中に名を知られていた

「お任せください、私が治しますから。必ず光を取り戻してあげます」
とフィシェルが言った

「その必要はありません。私には見るべきものが見えるのです」
とブナムは答えた



外界しか見ない目は 盲目だ。
まだ 本当の目 ではない。
非常に原始的で 未発達だ。
内側を見る 目の方が 本物だ。
ラビは 正しかった。
彼は、「もう私の目を 治す必要はありません。
物は 見えませんが、今では見たいとも思わないのです。
見る必要のある世界は、見えます。
目が見えなくなったのは いいことです。
物の世界に煩わされることも、気を逸らされることもなくなったのですから」と 言った。

そういうことは 何度も起こった。
ミルトンは 目が見えなくなった。
だが、 彼の偉大な詩が 生まれたのは、盲目になってからだ。

もちろん、最初、ミルトンは 大変な衝撃を受けた。
目は 視力を失った、治す手立てはなかった。
人生が終わった と 思った。
彼は良い詩人で、すでに名を知られていた。

詩人なら当然 こう思う、「目が見えなくて、どうやって 木を見たらいいのだろう ?
どうやって 月を、どうやって川や 荒々しい海を 見たらいいのだろう ?
目が見えなくて、どうやって生の色を 見たらいいのだろう ?
当然、詩は 貧しいものになる。 色を 失う」と。
だが、 ミルトンは 間違っていた。
宗教的な人間であったミルトンは、盲目を 受け入れた。
「いいだろう。
それが 神の意志なら、しかたのないことだ」。
彼は 受け入れた。
しばらくすると、無限の 新しい世界、内なる思考の世界に 気づくようになった。
主体的になったのだ。
もう外を見る必要がなくなり、全エネルギーが使えるようになった。


盲目の人を 見たことがあるだろうか。
彼らの顔には、いつも 一種の優雅さが見られる。
普通の盲人でさえ、とても優雅で静かだ。
外界から 惑わされることがないのだ。

生活の ほぼ八十パーセントが 目を通して行われる、と 科学者は言う。
生の ほぼ八十パーセントが 目に関わっている。
八十パーセントだ !
ほかの感官が分担するのは、二十パーセントに過ぎない。
生の八割が 目を通じて行われる。
盲目の人を見ると、非常な哀れみを覚える理由は そこにある。
聾唖者には さほど哀れみを感じない、だが、 盲目の人には 非常な哀れみを感じる。
「かわいそうに。 生の八割がないなんて」と 思う。

目は きわめて重要だ。
科学的研究のすべてが、目に依存している。
盲目の科学者なんて 聞いたことがあるだろうか。
あり得ない。
盲目の人が、物的研究の分野に携わることはできない。
それは難しい。
だが、 盲目の音楽家、歌手なら たくさんいる。
実のところ、目の見えない人には、目の見える人にない きわめて質の高い耳がある。
目で消費されるエネルギーの 八十パーセントが、消費されずに 耳の方に回るからだ。
その耳は きわめて受容的で 繊細になる。
耳で 見るようになる。
盲人の手を 握ってみなさい。
あなたは驚くだろう。
目の見える人にはない、とても生き生きとした感じがするだろう。
目の見えない人の手を握れば、暖かさが伝わって来るだろう。
その人は あなたが見えない、あなたに 触れるしかない。
そこで、全エネルギーが、触れようとする その手に流れて来る。

目で触れるのが 普通だ。
美しい女性が 通りすぎれば、あなたは 見る。
目で その女性に触れる。
あなたは 彼女の体全体に触れた ーー 彼女を 怒らせることも 法を犯すこともなく。
やがて あなたは、触れることの 何たるかを 完全に忘れる。

目は ひとり占めをしている。
多くの源泉から エネルギーを奪っている。

例えば、鼻だ。
目は きわめて鼻の近くにあり、鼻から 全エネルギーを奪い取る。
人々は 匂いをかぐことができない。
匂いをかぐ力を 失った。
人々の鼻は 死んでしまった。
盲人は 匂いをかぐ。
その能力は すさまじい。
あなたが 近づくと、その匂いを かぎ分ける。
匂いで あなただと わかる。
あなたに 触れる、その感触で あなただとわかる。
あなたが出す 音を聞く、その音で あなただとわかる。
目 以外の感覚が 活発に働くようになる。
目は 多くの緊張を生む。
だから、盲目の人は 優雅なのだ。


目が見えなくなったとき、最初 ミルトンは愕然とした。
しかし、宗教的な人間だった彼は 受け入れた。
神に 祈り、「あなたの御意志のままに」と 言った。

しばらくして ミルトンは驚いた。
それは呪いではなく 祝福だったのだ。
内側の 無限の色彩に気づくようになった。
極彩色の 世界だった。



(12)終わり・・・(13)へ 続く