saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第3話 ーーー 知識は禍いなり(02)

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( 知識の木の実を食べることによって堕落した という聖書の物語は本当だ
世界の ほかの経典類で あの上を行くものはない
あのたとえ話は たとえ話の決定版だ
ほかの どんなたとえ話も
あれだけの高みと洞察に達してはいない )


人間が知識を通じて堕落したというのは
ひどく非論理的に見える
それが非論理的に見えるのは,論理が知識の一部だからだ
論理というものは もろ手を上げて知識を支持しようとする
それが 非論理的に見えるのは
論理というものが人間の堕落の根本原因だからだ
絶対的に論理的な
絶対的に正気の,つねに正気の
自分の人生に けっして非論理を許さないような人間は 狂人だ
正気は狂気によってバランスされる必要がある
論理は非論理によってバランスされる必要がある
反対のものどうしが出会い
そして釣り合いをとる
ただ合理的なだけの人間などというのは不合理なものだ
彼は 多くを取り逃がすことだろう
実際には,美しいものの一切を
真実なものの一切を,彼は のがし続けるだろう
彼はつまらないものを かき集める
彼の人生など俗っぽい人生にしかすぎまい
彼は 世間的な人間でしかないだろう


あの聖書のたとえ話には 大変な洞察がある
なぜ人間は 知識によって堕落したのか ?
それは,知識というものが 距離をつくるからだ
それは,知識というものが「我」と「汝」をつくるからだ
それは,知識というものが 主体と客体
知る者と知られるもの
観察者と観察されるものをつくり出すからだ
知識というのは,その根本からして分裂症的なものだ
それは 裂け目をつくる
そうなると,そこにはもう何もそれを橋渡しする方法がない
人間が,物識りになればなるほど宗教的でなくなってゆくのはそのためだ
教育を受けた人間ほど神に接近する可能性が少なくなる


「 子供たちだけが私の王国にはいることができるだろう
ただ 子供だけが ーー」と言う イエスは正解だ

子供が持っていて あなたがなくしてしまった その性質というのは何だろう ?

子供には 無知識という
無邪気という質が備わっている
彼は 驚きをもってものを見る
彼の目は 完全にクリアーだ
彼は 物事を深く見る
だが,彼には 何の偏見も何の判定も
何の ア−プリオリ(先験的)な 観念もない
彼は 投影することがない
それがために
彼は〈 在るそのもの that which is 〉を知るに至るのだ


先日
われわれは〈現実 リアリティー〉と〈真実〉との区別について話していた
子供は〈真実〉を 知っている
あなたは〈現実 リアリティー〉しか 知らない
現実とは,あなたが自分自身のまわりに投影し
欲望し,思考して つくり出してしまったものを言う

現実とは あなたによる 真実の解釈なのだ

真実とは,ただただ 在 る そ の も の だ
現実とは,あなたがそれを理解するに至ったこと
それは あなたの 真実の観念なのだ
現実は
すべてバラバラに分かれた さまざまなものからなっている
真実は ただひとつの宇宙的なエネルギーからなっている
真実は 一元性からなっている
現実は 多元性からなっている
現実は ひとつの〈群衆〉だ
真実は〈統一 ユニティー〉だ

経文に はいる前に
知識とは ひとつの禍いであるという
このことが土台にならなければならない


J.クリシュナムルティ
「否定することこそ静寂である」と言っている
何を否定するのか ?
知識を 否定する
心(マインド) を 否定する
あなたの内側の この絶えざる〈占有〉を否定する ーー
ひとつの占有されざる空間(スペース) をつくり出すのだ
占有されていないとき
あなたは〈全体 whole〉と 同調している
占有されてしまっているとき
あなたは 調子っぱずれになっているのだ
それだからこそ,いつでもいい
あなたが
たまたま静寂の瞬間に達することのできるようなときには
そこに 大変なよろこびがある
その瞬間には,人生は意義を持っている
その瞬間には,人生には言葉を超えた荘厳がある
その瞬間には,人生にはひとつのダンスがある
その瞬間には,たとえもし 死が来たとしても
それは ひとつのダンスであり
ひとつの お祝いであることだろう
なぜならば
その瞬間は よろこび以外の何ものも知りはしないからだ
その瞬間は よろこばしい
それは 至福に満ちている


知識は否定されねばならない
ただ,私が言っているからでも
J.クリシュナムルティがそう言っているからでも
ゴータマ・ブッダが言ったからでもない ーー

もし私が言っているからといって否定した場合
あなたは 自分の知識は否定するだろう
が,私の言っていることが その代わりにあなたの知識になってしまう

あなたは それを入れ替えるだけだ

その否定は心(マインド)から 来るべきものじゃない

というのも,心(マインド) というのは とても巧妙だ
気をつけないと
それが何であれ,私の言っていることが あなたの知識になってしまい
あなたは それにしがみつきはじめる
あなたは あなたの古い偶像を捨てて
新しいもので それを置き換える
だが,それは新しい言葉でもって,新しい観念でもって
新しい思想でもって 演じられる同じゲームにすぎない


それならば,どうやって知識を否定するのか ?
また別の知識によってじゃない

ただ知識が 距離をつくる というその事実を 見抜くこと
ただこの事実を 強烈にトータルに見抜くことで充分だ
何か ほかのもので置き換えるというのじゃない
その強烈さは 火なのだ
その強烈さが,あなたの知識を 灰に帰さしめるだろう
その強烈さだけで充分なのだ
その強烈さこそ,〈洞察〉として知られているものの何たるかだ
洞察は あなたの知識を 焼き尽くすだろう
そして,それは また別な知識によって置き換えられたりはすまい
そうしたとき
そこに空(くう),シュンニャータ(sunyata) がある
そうしたとき,そこに無がある
なぜならば,そのとき そこには 何の中身もないからだ
そこには,かき乱されることのない
歪められることのない〈真実〉が ある


あなたは 私が言っていることを 見 なければならない
私が言っていることを 学 ぶ などというのは おかど違いだ
ここで 毎日私とともに坐っていて,私に耳を傾けていて
知識を かき集めはじめないこと
ここで私の話を聴いていて, 貯 蓄 しはじめないこと
私の話を聴く ということは
洞察における ひとつの実験であるべきだ

あなたは強烈さをもって,全体性(トータリティー) をもって
可能な限りの覚醒をもって 私に耳を傾けるべきだ
まさにその覚醒の中で
あなたは 要点を見抜くだろう
そして,まさにその 見 る ということ そのものが〈変身〉なのだ !
あとから,何か ほかのことをやらなくてはいけないというのじゃない
見る ことそのものが〈変異〉を もたらすのだ

もし何か 努力がいるとしたら
それは あなたが ただ取り逃がしているというのを表すだけのことだ
もしあなたが 明日やって来て,私に
「私は知識というのが禍いだ
知識というものが距離をつくり出すということを理解しました
さて,どうやってそれを落とすのですか ?」と 聞いたりするとしたら
そのときには あなたは取り逃がしているのだ
“ how (どうやって) ” などというのは湧いてこれるものじゃない
なぜならば
“ how ” というのは より多くの知識を求めていることにほかならないからだ
“ how ” というのは
方法を,テクニックを求めていることなのだ
何が なされるべきか ? ーー
洞察で充分だ
それは どんな努力の助けもいらない
その〈火〉は
あなたが 自分の中に持ち運んでいる あらゆる知識を焼き尽くすのに充分すぎるくらいだ
ちょっとその点を見てごらん


私の話を聴いているときには,私と一緒に行こうじゃないか !
私の話を聴いているときには,私の手を取って
私が あなたにはいって行かせようとしている その空間にはいって行ってごらん
そして,私が言っていることを 見 る のだ
議論しないこと
エスもノーも 言わなくていい !
賛成しないこと
不賛成もしないこと
この瞬間に 私と一緒にいてごらん !
すると, 突然
そこに 洞察が ある

もしあなたが 注意深く耳を傾けていれば・・・
ただし,「注意」という言葉で
私は 精神集中 を意味しているのではない
「注意」という言葉で 私が言いたいのは
ただ あなたが知性をもって,生気をもって
オープンさを持って耳を傾ける ということなのだ

あなたは,いまここに 私とともにいる
それが私の言う「注意」なのだ
あなたは ほかの どこにいるのでもない
あなたは,心の中で私の言っていることと 自分の古い思考とを比較したりしていない
あなたは 判定もしていない
私の言っていることを
あなたは自分の内側で,それが正しいか そうでないか
あるいは どれだけ正しいかなどと判定したりしていない


(03)へ 続く