saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第3話 ーーー 知識は禍いなり(04)

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それが クリシュナムルティの言う「否定は静寂なり」の意味なのだ

洞察というものは 否定の力をもっている
そして何かが否定され
その代わりに 何も据えられなかったら
何かが壊され
そこに 何も置かれなかったら
その場所に補充されなかったら
そこには 静寂がある
なぜならば,空間(スペース) があるからだ
そこには
古きが捨てられ 新しきがもたらされていないがゆえの静寂がある
その静寂を 仏陀は “ シュンニャータ (sunyata) ” と呼ぶ
その静寂が (空) であり〈無〉なのだ
そして,唯一その〈無〉だけが
〈真実〉の世界では作用し得る


思考は そこでは作用できない
思考は 物の世界でしか作用でない
なぜならば,思考も ひとつの “ 物 ” だからだ
微妙ではある
けれども,それは同じように 物質的なものなのだ
思考が記録され得るのはそのためだ
思考が中継され,伝達され得るのはそのためだ
私は あなたに 思考を投げつけることができる
あなたは それを つかまえることができる
あなたはそれを 持っていることができる
それは やり取りされ得るのだ
それは 譲渡可能だ
なぜならば,それがひとつの “ 物 ” だから
それはひとつの物質的現象なのだ


空(くう)というものは 与えられ得ない
空というものは あなたに投げつけたりされ得ない
あなたが その中に参加することはできる
その中に はいって行くことはできる
が,誰ひとり それをあなたに あげることはできない
それは 譲渡不可能なものなのだ
そして真実の世界では空しか作用しない
真実というものは 心(マインド) がなくなって はじめて知られる
真実を知るには,心(マインド) は やまなければならない
それは機能を停止しなければならない
それは じっと止まって 不動にならなけれならない


思考は,真実の中では 作用し得ない
が,真実は思考を通じて 働くことができる

考えることによって 真実に達することはできない
が,それに達したときに
あなたが思考を それなりの役目に用いることはできる
それが私のやっていることだ
それが仏陀のやったことだ
それがあらゆるマスターたちの やってきたことなのだ


私が言っていることは ひとつの思考にほかならない
けれども,この思考のうしろには〈空〉がある
その空は 思考によってつくり出されたものじゃない
その空は 思考を超えている
思考には それに触れることができない
思考には それを見ることさえもできない
こういう現象を観察したことがあるだろうか ?
あなたは〈空〉について 考えることができない
空というものを ひとつの思考にすることはできないのだ
あなたは それについて 考えることができない
それは思考不可能なのだ
もし それについて考えられるとしたら
それは 全然〈空〉なんかじゃないだろう
空がやって来るためには,思考は立ち去らなければならない
その二つはけっして出会わないものだ

ひとたび〈空〉がやって来たならば
それは あらゆる種類の方便を用いて それ自身を表現することができる



洞察とは ひとつの無思考状態を言う



(05)へ 続く