saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第5話 ーーー 〈無〉の香り (03)

…( “Yes” と “No” の正体こそが〈空〉の
〈無〉の,ニルヴァーナの秘密だ
空というのは ただ空っぽなんじゃない )

それはひとつの〈現存〉だ
とても確固とした現存だ
それは 反対のものを除外しはしない
それを内包する
それは それで 一杯なのだ
それは充満した空だ
それは 満ちあふれる空なのだ
それは生きている
ありあまるほど 生きている
だから
けっして 一瞬たりといえども 辞書に騙されないこと
さもなければ,あなたは 仏陀を 誤解してしまうだろう


もし辞書を引いて「無」の意味を見たりしたら
あなたは 仏陀を 取り逃がしてしまうだろう
辞書の定義するのは あたり前の 無
あたり前の空でしかない
仏陀が語っているのは 何か実に ただならぬものだ
もし それを知りたかったら
あなたは 生の中に
“Yes” と “No” が出会う何らかの状況の中に はいって行かなければならないだろう
そうして はじめて それがわかる

肉体と魂が 出会い
世間と神が 出会い
反対どうしのものが もう反対でなくなるとき
そこではじめて,あなたは それを味わうだろう


その味わいが〈TAO〉の味であり
禅の味であり
ハシディズム(Hasidism ユダヤ教密教)の味であり
ヨーガの味なのだ


「ヨーガ」という言葉も 深い意味を持っている
それは 一緒になる という意味だ
男と女が 出会うとき
それは ひとつのヨーガだ
彼らは 一緒になる
彼らは 本当に近づく
彼らは 重なり合いはじめ
そうして,お互いの中に 消え失せる
そうしたとき,彼らは もう中心(センター)など 持っていない
反対どうしの争いは 消え失せている
そして,そこに全き くつろぎが ある


この くつろぎは
男と女の間では 一時的にしか 起こらない
だが このくつろぎは
〈トータルなるもの〉と,〈全体なるもの〉となら,一時的ではない起こり方も できる
それは 永遠の起こり方も できるのだ

愛の中では
そのエクスタシーの ひとしずくが 得られるにすぎない
エクスタシーの中では,愛の大海の その全体が得られる


この〈無〉は
あなたの中に 思考の雲が何もなくなって はじめて達せられ得るものだ
あなたの 内なる空間(スペース)に 余計な邪魔を入れているのは
あなたの内なる空間を 塞いでいるのは
そういう雲なのだ
空(そら)を 観察したことが あるだろうか ?
夏,それは本当に きれいで澄みわたっている
本当に 水晶のように澄んだという 言葉にふさわしい
一点の 曇りもない
そうすると,今度は 雨期が来る
すると,何千 何万という雲が やって来る
そして,大地のすべてが 雲におおわれてしまう
太陽は 消え失せる
空はもう どこに行ったのかもわからない

これが 心(マインド) の状況だ
心は 絶えず曇らされている

それは あなたの 意識の〈雨期〉なのだ
太陽は もうどこに行ったか わからない
光は 隠れてしまっている
遮られてしまっている
そして,空間(スペース)の 純粋性も
空間の自由も もう手もとにはない
どこからどこまで
あなたは 雲によって 自分が どこからどこまで限定されているのかを見出す



あなたが 自分はヒンドゥー教徒だと 言うとき
それは どういうことだろうか ?

あなたは ひとつの雲に
自分がヒンドゥー教徒だという その思いに とらわれているのだ

あなたが 自分は回教徒だと 言うとき
あるいは,クリスチャンでも ジャイナ教徒でもいい
それは どういうことだろうか ?

あなたは ひとつの 思考の雲に 同化してしまっているのだ
あなたの 純粋性を失っているのだ

私が
宗教的人間というのは,ヒンドゥー教徒でもなく
回教徒でもなく キリスト教徒でもない というのは そこなのだ・・・

宗教的な人は 意識の〈夏〉だ
雲ひとつない
そこには 太陽がある
明るく 翳りがない
そして,そのまわりには 静寂がある
曇った意識の波動は 見い出せまい


あなたが自分は 共産主義者だ と言うとき
それは どういうことだろう ?

あなたは こう言いたいのだ
「自分は カール・マルクスレーニンスターリン毛沢東を読んできた
自分は 資本論に ベッタリだ
自分は 階級闘争
貧乏人と金持ちの争い という考え方に 同感している
自分は,将来いつの日にか 無階級社会が作られ得るという
ひとつの夢,ひとつの ユートピア思想に魅せられている
催眠術に かけられたようになっている
自分は このユートピアに取り憑かれていて
そのためには 何だってする用意がある
たとえば もし何百万という人々を 殺さなくてはならないとしても
お安いご用だ
それも,彼ら自身のために
彼ら自身に よかれと思ってのことだーーー」

これは ひとつの曇った状態に ほかならない


あなたが 自分はインド人だ と言うのも また同じこと
自分は中国人だ と言うのも また同じ
もし本当に 宗教的になりたかったら

あなたは こういうさまざまな アイデンティティー(自己証明)を
ゆっくり ゆっくり落としてゆかねば ならないだろう
どんな観念にも 支配されるべきではない
どんな書物も あなたのバイブルであってはならない !
どんな ヴェーダ
あなたを 限定するようなことがあってはならないし
どんな ギータも
あなたを 閉じ込めてしまうようなことが あってはならない
どんな哲学や神学やドグマや理論や 仮説でも
自分が 一杯になるまで 詰め込むべきじゃない
あなたの 意識という炎のまわりに どんな煙も許すべきじゃない

そうして はじめて,あなたは宗教的だ と言えるのだ

もしひとりの宗教的人間に,あなたは誰なのか と 問いかけても
彼には「自分は ひとつの無だ」としか言えない
というのも,無というのは 観念じゃない
それは 理論じゃないからだ
それは ただ単に ある純粋状態を 指し示しているにすぎない


覚えておきなさい
〈知覚〉というのは〈知識〉とは 何の関係もない

実際のところ
知識を通して 知覚する場合には正しく知覚している とは言えない
あらゆる知識は さまざまな投影を生む
知識というのは 偏見だ
知識というのは 先入観だ
知識というのは 断定だ
あなたは その中に はいって行きもせずに 結論をくだしてしまっている



(03)終わり・・・(04)へ 続く