saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第1話ーーー七段の梯子 (11)

(…それは陰であって,陽ではない
それは〈母〉だ
〈父〉じゃない)


神を〈父〉としてとらえるキリスト教の概念は
あまりビューティフルなものではない
それは男のエゴ以外の何ものでもない
男のエゴは
神が〈彼女〉であり得るということを思い浮かべることもできない
男のエゴは神を〈彼〉にしたがる
それに,キリスト教の三位一体の全体を見てごらん
三人とも全部男だ
そこには女は含まれていない
父なる神
子なるキリスト
そして聖霊 ーー
まるで男性専用クラブだ


しかし,よく覚えておきなさい
生においては〈女性〉の方が〈男性〉よりもずっと本質的なものだ
なぜならば,子宮を持っているのは女の人だけだからだ ーー
生命に
新しい生命に生を与えられるのは女の人だけだ
それは〈女性〉を通じてやって来る
なぜ,それが〈女性〉を通って来るのか ?
それは単なる偶然じゃない
それが女性を通って来るのは
それが来るのを許すことのできるのが女性だけだからだ
〈女性〉というのは受容的だから ーー
〈男性〉は攻撃的だ
〈女性〉は受け容れ,吸収することができる
ひとつの通路になることができる


経文はバガヴァンではなく,バガヴァティと言う
これは非常に重要なところだ
あらゆるブッダたちの源であるところの完全なる知恵は
一種の女性的要素,〈母〉なのだ
子宮は母でなくてはならない
神を父と思うようでは
あなたは自分が何をやっているかご存知ないのだ
父親というのはひとつの不自然な “制度” にすぎない
父親というのは自然界には存在しない
父親というのはここ数千年の存在でしかない
それは人間のつくった “制度” なのだ
母親の方はあらゆるところに存在する
母親というのは自然なものだ


父親というものが世の中に登場したのは私有財産が現われて以来のことだ
父親というのは経済の一部であって,自然なものではないのだ
そして,もし私有財産が姿を消したら
ーー そんなことが起こったらの話だが ーー
父親というものも消え失せるだろう
母親の方はいつの世にも変わらず残るだろう
母親のいない世界などというのは考えられない
が,父親のいない世界ならごく簡単に思い描ける
それに,その観念そのものからして攻撃的だ
考えてみたことがないかね ?
ドイツ人だけが自分たちの国を「父なる国」と呼ぶ
ほかの国はどこも「母国」と呼ぶ
ん? あれはどうも物騒な人種だ !
「母国」なら問題はない
が,自分の国を「父国」と呼び出したら−−−−−−
何か危ないことがはじまっている
穏やかでない


遅かれ早かれ,攻撃性が出てくる
戦争がやって来る
その種はちゃんとある


神を「父」とみなしてきた宗教は すべて攻撃的な宗教だった

キリスト教は攻撃的だ
イスラム教もしかり
そして,ユダヤ教の神が
とても怒りっぽい,傲慢な神だというのも周知の事実だ
ユダヤ教の神は こう言う
「もし私に帰依しないならば,それは私に反対していることだ
そんな奴は滅ぼしてやる
私はとても嫉妬深い神だ
私だけを崇拝するがいい !」ーー

神を「母」と見なして人たちは,非暴力的だった
仏教徒は一度として 宗教の名を借りた戦争などしていない
彼らはひとりの人間といえども,けっして力づくで
強制的に改宗させようとしたことはなかった
それを,回教徒ときたら
人々の意志に反して
人々の本心に反して
人々の意識に反して
剣をもって彼らを改宗させようとしてきた
キリスト教徒も,あらゆる手管を用いて
人々をキリスト教徒にさせようと細工に余念がなかった
あるときは剣をもって
あるときはパンでもって
またあるときは,何か別な説得のしかたでもって ーー
ひとりの人間といえども
その人の本意に反してまで改宗させようとしなかった宗教は仏教だけだ
仏教のみが非暴力の宗教だ
それは,究極のリアリティーについての仏教の概念が女性的なものだからにほかならない


“ 麗しく, また聖なる
知恵の完成者に礼したてまつる ”

そして,覚えておきなさい
真実は美しいものだ
真実は,それが祝福であるがゆえに美しい
真実は醜くはあり得ない
そしてまた,醜いものは真実ではあり得ない醜いものは架空のものだ


醜い人を見ても,その醜さに騙されないこと
もう少し深く探ってごらん
そこには きれいな人が隠されていることだろう
その醜さに騙されないこと
醜さはあなたの解釈の中にあるだけだ
生は美しい
真実は美しい
存在は美しいものだ
それは醜さなどというのを知らない


そして,それは麗しい
それは女性的だ
そして,それは神聖だ
ただし,覚えておきなさい
「聖なる」というのは
あたかもそれが あの世的なものであったり
現世的な,卑俗なものに対して神聖だというような ありきたりの意味で使われているんじゃない
違う
一切が 神聖だ
現世的だとか,俗だとか呼ばれ得るようなものは何ひとつない
一切が 神聖だ
なぜならば
一切は〈ひとつ〉なるものでみなぎっているのだから ーー
いるのは ブッダたちにつぐブッダたちばかりだ !!
ブッダ樹, ブッダ犬, ブッダ鳥,
そして,ブッダ男に ブッダ女 ーー
とにかく,一切が ブッダ
すべてがその途上にある !
人間は廃墟の神ではない
人間は製造中の神だ
その途中なのだ


第二句 ーー
“ 聖なる 観自在菩薩(アヴアローキテーシュヴァラ)が彼方に至る知恵を究めつつあったとき,彼が高みから見おろすと,目にはいるのは五つのあつまりばかりであり,それらも実体は空であることを看破した。 ”




(12)へ続く