saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「究極の錬金術 1」by OSHO (第9章 08)

『人間は神に何を捧げられるか ?』(08)

 

シュバイツァー

ヒンドゥー教徒は 生を否定している」と 言った。

彼は 間違っている。

彼は ブッダのことを 考えていたからだ。

エスユダヤ教徒であるのと 同じように

ブッダヒンドゥー教徒だった。 が、それだけのことだ。

ブッダは、イエスユダヤ教徒として生まれたのと 同じように、ヒンドゥー教徒として生まれた。

が、ヒンドゥー教は、実際はブッダに先んじるウパニシャッドに、本質的なものがある。

そしてブッダは、ウパニシャッドの中にないものを

何一つとして語っていない。

ウパニシャッドは 生を肯定する。

トータルに肯定する。

生を トータルに肯定するとは、どういうことか ? 

 

あなたには、イエスが 踊っているところなど

想像できない。

エスが 歌っているところなど、想像できない。

ブッダが歌い、踊り、愛しているところなど

想像できない。

マハヴィーラが 戦っているところなど、想像できない。

それは できない ! 。

 

あなたが想像できるのは、クリシュナが、笑い、踊り、愛しているところだけだ。戦場に いても、戦いを否定しない。

否定しないのだ !  生の全てが神聖だ。

 

だから神を選び取ることは

世間を 捨てるという意味ではない。

神を 選ぶのは、世間を通して神を選ぶ ということ。

それが “それ” の 意味だ。

 

あなたが世間に 反せず、世間を通じて 神を選ぶ時

そこに 反対の ものはない。

その時、はじめてあなたは

逆効果の法則から 逃げることが できる。

「これ」を通して “それ” を 選ぶ時

そこに 反対のものはない。 そこに 二律背反はない。

二律背反が 存在しなければ

マインドが 活動する 層がない。

それは、マインドが 繋ぎ止められていることでも

縛られていることでもない。

また、無理に そうしたいということでもない。

もう マインドは 活動できない。

というのも、そこに二律背反が ないからだ。

 

それを はっきり理解しなさい。

 

反対のものが なければ、マインドは 自由に動けるはずだ。

が、マインドは 動けない −−− どこに動いたらいいのか ? 

もし動けるなら 動くはずだ、活動が マインドの本質だから。

もし あなたが 区別を作り出すなら、マインドは 反対ヘ動く。

マインドは あなたに 反逆するだろう。

もしそこに 二律背反が なければ、反対の ものが なければ、 もし あなたが 相反するものもまた、神のなかに包合したなら、マインドは どこへ動けよう ? 

どこへ動こうが  “それ” ヘと 向かうだけだ。

 

もしクリシュナが 少女と踊っているとすれば

彼は神と 踊っているのだ。

少女は 神の中から 除外されていない。

神は少女に 反しない。

もし神が 少女に反する存在であるなら

その少女は 悪魔になる。

すると 神を誘惑することになり、困ったことになる。

キリストは 笑うことができない。

彼は、常に緊張の中に 生きていた。

クリシュナは 笑うことができる。

彼には 緊張が まったくないからだ。

全てが 神であるなら、全てを通して 神に捧げものを 供え続けているとすれば、どこに不安が あろう ? 

その時、不安になる 必要はない。

 

クリシュナは どこにいても くつろいでいられる。

たとえ地獄にいても、彼は そこで踊っていられる。

というのも、地獄でさえ 彼にとっては  “それ” だからだ。

 

 

(08)終わり(09)ヘ 続く