『人間は神に何を捧げられるか ?』(09)
(…クリシュナは どこにいても くつろいでいられる。
たとえ地獄にいても、彼は そこで踊っていられる。
というのも、地獄でさえ 彼にとっては “それ” だからだ )
私は、ジャイナ教徒はクリシュナを
地獄に送り込んだ と言った。
というのも、クリシュナには、インドの大戦争、マハーバーラタの責任が あったからだ。
ジャイナ教徒は、クリシュナを七番目の地獄に 送り込んだ。
そこは、大罪人達の行く 最も深い地獄だ。
しかし私が目を閉じ、地獄にいるクリシュナのことを思い浮かべると、そこには 踊っているクリシュナ以外は 想像できない。
彼は 地獄で 踊っているに違いない。
地獄ですら “それ” だからだ。
そして、彼は そこで何一つ あくせくしていないだろう。
また、地獄から出してくれるようにと、祈ってもいないだろう。
彼は 何の努力も していないだろう。
“それ” は あらゆるところに 存在するからだ。
あなたは どこにも行く必要はない。
あなたは、唯一 ある特定の条件の元に
“それ” を 見い出すことが 可能だ。
条件を考える必要はない。
“それ” は あらゆる条件の中で 見い出せる。
“それ” は 無条件に現存する。
そして あなたが、無条件に現存する存在として 神のことを考えられれば、ウパニシャッドの “それ” に なる。
すると、毒の中でさえ “それ” は存在する。
死の中でさえ “それ” は ある。
すると、苦しみの中にでさえ存在する。
すると、あなたは どこにも動けない。
あるいは どこへ行こうと
あなたは “それ” ヘと動いていることになる。
“それ” は、これらを通して考えることだ。
さもなければ、逆効果の法則が働き出す。
すると、宗教を信奉している人々全員が
逆効果の法則に 陥らねばならないことになる。
それを 完全に理解しない限り、あなたは
自分自身のナンセンスの犠牲者になってしまう。
この法則が あらゆるところで 働いていることを感じはじめない限り、そして 決してマインドの中に 反対のものを作り出さないように しない限りは −−−
何かに反するものとして 何かを選ぶ時
あなたは 自分自身が落ちる 落とし穴を作る。
そうすると、あなたは その反対のものに
魅了されてしまう。
我々は みな、反対のものに 魅了されている。
たとえば、あなたが セックスは罪だ と言えば
社会は性的になる。
すると、セックスは ロマンチックなものになる。
そして セックスは その周りに
神秘的な オーラを持ち始める。
まったく単純な生の事実が、それを罪と呼ぶことゆえに
落とし穴に なってしまう −−− ただ、セックスを罪だと呼ぶだけで !
何かを罪だと言ってごらん。
すると、自分が魅了されてしまうポイントを
作り出したことになる。 自己催眠が 可能だ。
何かを 否定してごらん。
すると、あなたは その罠にはまってしまう。
老子曰く
「天と地の間を 一寸 分けることが、全てを 分かつ。 善と悪の間を 一寸 分けることが全てを 分かつ」
何一つ、区別すべきではない。
(09)終わり(10)ヘ 続く