saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「究極の錬金術 1」by OSHO (第9章 10)

『人間は神に何を捧げられるか ?』(10)

 

老子曰く

「天と地の間を 一寸 分けることが、全てを 分かつ。 善と悪の間を 一寸 分けることが全てを 分かつ」

何一つ、区別すべきではない )

 

宗教は 道徳ではない。

宗教は道徳を 超えている。

道徳は 区別なくして 存在しない からだ。

そして、宗教は 区別すると 存在しないものだ。

道徳は、他がなければ 存在しない。

それは 善と悪 など、対極に分けることで 成り立つ。

だから、神と悪魔は 宗教の一部ではなく

道徳の一部なのだ。

悪、悪魔、サタンに 対するものとしての 神の概念は

本当は宗教の概念ではない。

それは 道徳の概念だ。

 

初めて ウパニシャッドが 西洋の言葉に翻訳された時

学者達は 困ってしまった。

それらは

「これを しろ、あれを するな !」という 十戒のようなものでは なかったからだ。

ウパニシャッドには、十戒のようなものは 何もなかった。

十戒のようなものがなくて、どうして宗教が 成り立つだろう ? 

どうやって ? 

 

西洋では 考えられないことだ。

だから 彼らは、それらの本は「本当は宗教的な ものではない」と 考えた。

なぜなら、何が善で何が悪か、何をすべきか 何をなさざるべきか、ということは 議論の課題ではなかったからだ。

彼らは ある意味では正解だ。

 

もし我々が 道徳として宗教を考えるなら

ウパニシャッドは 宗教ではない。

しかし ウパニシャッドが 宗教ではないとすれば、宗教は 存在しない −−− 道徳とは ただ便宜上のものであり、国家、民族、土地柄、歴史によって 異なる基準を持つからだ。

それは各々 違う。

全ての民族、全ての国家は、自国 自らの便宜から

道徳律を 作り出して生きてきた。

宗教は 便宜上の ものではない。

宗教律は、各民族によって異ならない。

それは 土地柄にも依存せず、歴史にも 依存していない。

実際、それは 人間の思考にも依存していない。

それは、真実の 本性そのものに依存している。

だから、宗教は ある意味で永遠のものだ。

道徳律というのは、いつも 一時的なものだ。

それらは、ある時代、ある時期、ある空間に 属している −−− そして それらは変わる。

時代が変われば 道徳律も変わる。

だが 宗教は 永遠のものだ。

なぜなら、それは真実の本性そのものだからだ。

それは あなた方の 思考によらない。

 

宗教は 相対するもののない世界だ。

 

 

(10)終わり(11)ヘ 続く