saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「究極の錬金術 1」by OSHO (第9章 06)

『人間は神に何を捧げられるか ?』(06)

 

(…マインドの 舵を取ろうとすると、統制のとれない状態になる。

すると、混乱状態と 向き合うことになる )

 

静寂を 求めれば求めるほど、マインドは 静かで なくなる。

マインドを 沈黙させようと すればするほど

より罪の誘惑に かられる。

これが マインドの 基礎的な 法則だ。

 

これは物理において、ニュートンの法則が基礎であるのと 同じくらい、マインドにとっては 基礎的だ。

すなわち 逆効果の法則だ。

何にせよ、あなたが 押しつけようするものは

決して 達成できない。

 

あなたは 逆のものを 達成する。

そして 悪循環が作られる。

そして逆の結果を 手にした時、逆になろうとする力が 余りに手強くて、あなたは「もっと闘わなければ」と 考え始める。

だが、闘えば 闘うほど、逆になろうとする力、反対に向かう力が 増していく。

 

実際、反対の力は 存在しない。

それは ただあなたが 自分のマインドを 一つに繋ぎ止めようとするために、生み出されているにすぎない。

それは 副産物だ。

その法則を知らないために訪れる 副産物だ。

 

それでは、神にマインドを捧げるには

どうすればいいのだろう ? 

 

もしあなたが 何かに反して 神を選ぶなら

捧げることは 絶対できない。

 

それには、ただ 一つの方法しかない。

それは、ありとあらゆるもの として 神を選ぶことだ。

全体として 神を選ぶ。

ありとあらゆるものの中に存在する神を 選びなさい。

たとえ悪魔が あなたの所に やって来たとしても

悪魔の中に 神を 見なさい。

そうすれば、あなたは 捧げることが できる −−− 

捧げることは、壊れることなく隙間なく、ずっと続く。

今や 隙間は あり得ないからだ。

 

だからウパニシャッドでは「神」という 言葉を使わない。

ウパニシャッドは “それ” という 言葉を使う。

なぜなら、あなたが「神」と 言った瞬間、

悪魔が 作り出されるからだ。

実際、ウパニシャッドは どんな言葉も 使わない。

ウパニシャッドは ただ 指を使う。

ウパニシャッドは “それ” という呼称を 使う。

“それ” は すべてを 包含する −−− ありとあらゆるものを。

もしあなたが、全ての存在を 神として考えるなら

捧げることができる。

そうでなければ、正反対のことが 生じる。

神に 捧げたのに、その捧げものが 悪魔の所ヘ行ってしまうことになる。

 

全ての宗教が その問題、分裂に直面している −−− キリスト教ユダヤ教イスラム教。

インドから生まれた宗教は

全て その分裂を受け入れてきた。

インド生まれの宗教は

神と 悪魔という 二分を 受け入れてきた。

もし それらの宗教の 歴史を見れば

とても不思議な現象に 気づくだろう。

 

エスが 神の側に 立つと

悪魔は イエスをも誘惑し続けた。

エスが どちら側に 立っても

彼の教会は それにまったく反対の立場 −−− まったく正反対の立場を取った。

 

キリスト教は イエスに対して 最小の関心しか抱いていない。

というより、キリスト教は イエスの敵だ。

というのも、教会が してきたことは何であれ

神の仕事だ とは 言い難いからだ。

それは 悪魔の仕業だ とも言える。

だが、それは逆効果の法則からいくと 当然だ。

一度、あなたが その二元対立を 受け入れれば

結果は反対になる。

 

キリストは 愛を説き、教会は 憎しみに加担している。

キリストは「悪に対してでさえ、抵抗してはならない」と 言ったのだが、教会の 全歴史は長い戦いの歴史だ。

だから ニーチェが「最初で最後のキリスト教徒は 十字架の上で死んだ」と 言ったのは正しい −−− 

最後のキリスト教徒もだ ! 

エスの後、キリスト教徒は いない。

しかし実際には、聖パウロや 他の教会指導者には、とりざたされているほどの 多くの責任はない。

 

本当の責任は、逆効果の法則を 知らないことにある。

あなたが 神聖な部分を選択しても、また 神聖でない部分、神聖に反する部分を選択しても、マインドは その反対側ヘ 動く。

 

マインドには、動くための 何らかのトリックが ある。

マインドは、善という名目で 悪を 正当化できる。

マインドは、平和のために 戦争する という ヘ理屈を作る。

それは 愛ゆえに人を 殺し、虐殺できる。

マインドは、反対に動くことに関して 非常にずる賢い。

 

そして マインドが 反対に動く時、あなたに「私は動いているのではない」という あらゆる理屈を与える。

もしあなたが 世間的な事の 反対として 神を選ぶとすれば、マインドを捧げることは 決してできないだろう。

 

そして部分的に捧げることは、捧げる内に 入らない。

それもまた、心に留めておくべきだ。

部分的に捧げるのは、数学的に言って 間違いだ。

部分的な円 というのと、ちょうど同じだ −−− 

それは 円ではない。

円が 円であるのは、まん丸で 完全な時だけだ。

部分的な円は、円と 呼べない。

それは 円ではない ! 

 

捧げるとは トータルであることだ。

そうでなければ、捧げる とは 言わない。

どうして 部分的に捧げられる ? 

それは 本質的に 不可能だ。

どうして 部分的に 愛せる ? 

愛するか 愛さないかの どちらかだ。

妥協など できない。

愛に 度合いは あり得ない。

愛は そこに あるかないかの、どちらかだ。

 

他の全ては ただのまやかしだ。

捧げる ということは、全一なる現象だ。

あなたは 降参し、明け渡す。

 

が、「私は 部分的に明け渡す」とは 言えない。

それは どういうことだろう ? 

部分的な明け渡し とは

あなたが まだ 自分の主人(マスター)であって

後戻りが できるということだ。

 

その後に 残されている部分は 取り戻すことができ

明日には「ノー」と言える。

 

全一なる明け渡しは、後に 何一つ残さず、何一つ 惜しまない。

そうなると、後戻りできない。

戻る ということは あり得ない。

後戻りすべき人が いないからだ。

 

だから、捧げる ということは 全一だ。

 

 

 

(06)終わり(07)ヘ 続く