saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第10章「全一であることの奥義」(04)

 

( それは ありきたりのことではない。 稀なることだ。 それは 骨が折れる。 そして、それは 捧げるに値する )

 

いつであれ、一つのハプニングが 起こる時、いつであれ、一人のブッダ、一人のクリシュナ、一人のキリストが 彼ら自身を 捧げる時、マインドを神に捧げる時、それは一人のブッダ、一人のキリストを 豊かにするだけでなく、神をも また豊かにする。

それを理解するのは、とても難しいだろう。

一人のブッダが 神に 自分を捧げる時

それは 神をも また、豊かにする −−− 

ブッダの意識の中で、よりいっそう神が花咲き、

ブッダの意識の中で、よりいっそう神がピークに達するからだ。

神はなにか、離れ離れになっているものでは ない。

それは、我々の内に ないものではない。

だから、捧げることは、他の誰かのためではない。

それは、誰にも共通の 意識の貯水池のためだ。

誰にも共通の 存在、共通の実存のためだ。

そして 一人のブッダが 捧げられる時

それはブッダを 豊かにする。

それによって、ブッダが 全体になるからだ。

最も、全体も また、それによって豊かになる。なぜなら、ブッダを通して ひとつのピークに触れるからだ。

神は あなたを通して 生きる。

だから、あなたが失敗する時は、神が失敗するのだ。

あなたが 上がる時、神が 上がる。

あなたが 笑う時、 神が 笑い、

あなたが 泣く時、 神が 泣く −−− 

彼は あなたと離れ離れの なにかではない。

彼は 天国にいて、遠いところに座って

ただ見ている 観察者ではない。彼は あなたの 内にいる。

だから、全ての行為、全ての仕草は 彼の ものだ。

だから、なされることが 何であろうと、彼とともになされ、彼を通してなされ、彼によってなされ、彼のために なされる。

 

(04) 終わり (05)ヘ 続く