saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「究極の錬金術 1」by OSHO (第9章 07)

『人間は神に何を捧げられるか ?』(07)

 

( だから、捧げる ということは 全一だ )

 

しかし、もしあなたが 世界を分割するなら、存在を 両極に分けるなら、とても深い分裂状態に陥る。

そして、あなたのマインドは

自分の意図とは 反対へと動くだろう。

それに 逆らえば逆らうほど

あなたは 反対のものに惹かれていく。

否定的なことは、とても魅力的だ。

あなたが「―――してはいけない」という方向に 自分を律すれば、反対のものの魅力は 耐え難いほどになる。

「ノー」は、実に人の心を 魅了する誘いだ。

いつであれ、自分のマインドを 何かに強制的に向かわせる時、反対のもの、その方向に向かわないようにするものが誘いとなる。

そして早晩、あなたは 自分が選択した部分に 飽き飽きしてしまう。

すると、マインドが 動き出すだろう。

マインドは常に 動き続けている。

 

中国の哲学では「陰」は「陽」の中へと 入り続け、「陽」は「陰」中に 入り続け、一つの円を 作り出すと言われている。

それらは 絶えず、あるものから別のものへと 動き続ける状態にある。

男は 女の中に 入り続け、女は男の中に 入り続け

彼らは 円を 作り出す。

光は 闇の中に 入り続け、闇は 光の中に入り続け 円を作り出す。

 

光に退屈すると 闇に惹かれ

闇に 退屈してくると 光に惹かれる。

 

あなたは 反対のものの間を、行ったり 来たり している。

そこで、もしあなたの神も また反極の世界の一部、反極の論理の一部なら、あなたは もう一方の極に動く。

ゆえに、ウパニシャッドでは “それ” と 言うのだ。

その “それ” の 中には、全てが包含されている。

何一つ 否定されて いない。

 

ウパニシャッドは、きわめて肯定的な 生の概念、きわめて肯定的な 生の哲学を有している。

実際、それは実に 不思議なことだ。

アルバート・シュバイツァー

インド哲学は 生を否定している と 言っていた。

しかし実際、彼は 事の全体を 誤解していた。

彼のマインドの中で「ヒンドゥー哲学」とは マハヴィーラや ブッダのことだったに 違いない。

だが、彼らは 本当はインド哲学の 主流ではない −−− 彼らは ただの 反逆的な子供達にすぎない。

ヒンドゥー哲学は 生を否定していない。

その反対で、キリスト教哲学が 生に反対しているのだ ! 

そして、アルバート・シュバイツァーは ひとりのキリスト教徒、深い信仰を持った キリスト教徒だった。

ヒンドゥー哲学は 最も生を肯定しているものの一つだ。

そして、生への肯定的な考えの中に沈潜するのは いいことだ。

そして はじめて、あなたは “それ” の意味を理解できる。

“それ” という言葉は、最も肯定的な言葉の一つだからだ −−− 何一つ否定されていない。

「生」を 否定することは、あなたの考えている神が  生に反対している、という意味だ。

 

ジャイナ教は 生を否定している。

ジャイナ教は「この世は罪の世界だ」と 言う。

だから あなたは この世界を捨て、否定し、放棄すべきだ ! 

生を完全に 否定しない限り、あなたは 神に到達できない。

それでは 神というものが、何か条件を満たすことで 初めて達成できるものになってしまう。

あなたが 世間を放棄すれば −−− それが基本条件だ。

仏教徒にとっても また、それが基本条件だ。

「あなたは全てを放棄しなければならないあなたは死を選ばなければならない ! 

生ではなく、死が ゴールでなければならない。

二度と この世に生まれることがないように

あなたは奮闘しなければならない !

生には何の価値もない。

生に 値打ちはない。 生は、あなたの罪ゆえに、この世に 存在しているにすぎない。 それは 一種の懲罰だ。

そしてあなたは、そこから どうにかして抜け出し

二度と生まれてこないように すべきだ」

 

しかし そうした考え方は、ヒンドゥー教の ものではない。

ウパニシャッドは、そんな考え方とは

まったく 関わりない。

 

生を否定する 考え方は、キリスト教も また然りだ。

「生きることは罪であり、人間は罪とともに生まれる」

歴史は 罪に始まる。

アダムは 罪を犯したために、天国から追放された。

彼は 従順ではなかった。

そして今、我々は 罪から生まれる。

だから キリスト教は「イエスは セックスから生まれたのではない、彼は 処女の娘から生まれたのだ」と 主張し続けてきた。

 

もし、あなたが セックスから生まれたとすれば

あなたは 罪から生まれたことになる。

 

少なくとも、イエスは 罪とともに生まれるべきではない。

そして、全ての者は 罪とともに生まれる。

人類は 罪とともに生きる。

そこで徹底的な放棄が、神に至るために必要とされる。

 

キリスト教も また、死を志向している。

そのために、十字架が とても意味深いものになっている。

さもなければ 十字架など、そんな意味深いもので あっては ならない。

それは 死のシンボルだ。

 

ヒンドゥー教徒には、どうして十字架が シンボルになり得るのか 考えられない。

そして、イエスが とても重要で 意義深い人物に なったのも、彼が 磔にされた ためだ。

もしあなた方が イエスを磔にしなければ

彼は ただの普通の人だ。

だとしたら、キリスト教は 誕生していなかっただろう。

実際、死を 志向する人がキリストに魅力を感じるのは

エスが 磔にされたからだ。

エスの死は、最も意義深い 歴史的な瞬間になった。

 

実際 キリスト教が 誕生したのは、ユダヤ人達が

愚かにも、イエスを磔に したことによるのだ。

もしイエスが 磔にされていなかったら

キリスト教は 存在しなかっただろう。

 

そこで、またしても ニーチェは 正解だ。

彼は「キリスト教は、本当は キリスト教ではなく

十字架教 −−− 十字架志向だ」と 言っていた。

 

(07)終わり(08)ヘ 続く