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「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「死の アート」第三章 綱渡り (03)

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( …「神は もう時代遅れだ」と 言うのが、唯一正しい表現だろう。
人間は もっと自分を信頼していい。
信仰は いらない、信仰の松葉杖は要らない。)

それゆえ、人々は ますます宗教に関心をなくしている。
教会で起こっていることに無関心になっている。
教会の言うことに、反論すらしないほど無関心に。
あなたが、「神を信じますか」と聞けば、「神は いてもいなくても どちらでもいい。 違いはない。 大したことではない」と 言うだろう。
あなたが信じていれば、単に 敬意を表して「ええ、神はいます」と、
信じていなければ、「いいえ、神はいません」と言うだろう。
だが、強い関心は もうない。

これが第一種の宗教だ。
それは、諸世紀、諸時代を経て、長い間 存続してきた。
だが次第に、流行遅れ、時代遅れになっている。
その時代は 終わった。
心理学的なものでない 新しい神、実存的な神、実在する神、実在としての神が 求られている。
神という言葉は、捨ててもいい。
「真実」、「実在」で構わない。


それから、第二のタイプの宗教的な人がいる。
その人たちの宗教は、恐れから生まれたものではない。
最初の宗教は 恐れに端を発しているが、二番目の宗教は 恐れではなく、小賢しさに端を発している。
これもまた偽物、つくりもので、い わ ゆ る が付く。

理論を造り続ける とても利口な人々がいる。
彼らは、論理、形而上学、哲学の訓練を充分に積み、抽象物に過ぎない宗教 ーー技能、知性、知力、思考力を発揮した すばらしい作品 ーーを造る。
だがそれは、けっして生に入っていかない、どこでも生に触れることがない。
それは、抽象的 概念化に過ぎない。


昔、 ムラ・ナスルディンが私に言った。
「あたしゃ、真っ当なことなんて したためしがない。
西瓜や 鶏を盗んだり、酔っ払っちゃ 喧嘩して、殴ったり、剃刀で切りつけたり。
だがね、一つだけ絶対にしなかったことがある。
あたしゃ、下司(げす)な男だが、宗教を捨てることだけはしなかった」。


いやはや、何という宗教なのだろう ?

そういう宗教は、生に何の影響も与えない。

あなたは信じる、だが、その信念は 生に入っていかない。
生を変容させない。
あなたを かたち作る 不可欠の要素にはならない ーー
血液中を流れたり、息とともに吸い、息とともに吐き出したり、心臓で脈打ったりすることがない。
それは無用の代物だ。
良くて装飾品だろうが、何の役にも立たない。
そのうち、あなたは 教会へ出かけることもあるだろう ーー 儀式、社会的必要事として。
そして、神や、聖書やコーランや、 ヴェーダに 口先だけの信仰心を表すだろう。
だが、本心ではないし、誠実でもない。
あなたの生は、宗教を携えることなく、それとは全く別の方向へ進む。
あなたの生は、宗教とは無縁だ。
観察してごらん。
あの人は イスラム教徒だ、あの人はヒンドゥー教徒だ、あの人はキリスト教徒だ、あの人は ユダヤ教徒だ、と人は言う。
信念は それぞれ違っている、だが、彼らの生を 観察しても、何ら違いは見出せないだろう。
イスラム教徒も、ユダヤ教徒キリスト教徒も、ヒンドゥー教徒も 皆、同じ生を 生きている。
その信念は、生に何の影響も与えない。
実際、信念は 生に触れることができない、それは便法だ。
信念は、「私は 生を知っている」と あなたに言わせてしまう 巧妙な便法だ。
あなたは、気を楽にして休めるし、生に悩まされることもない。
あなたは ある観念を抱く、その観念が自己の正当化に手を貸す。
すると、生は さほどあなたを 悩ませなくなる。
あらゆる問いに、あなたが答えを用意しているからだ。

だが覚えておきなさい。
宗教が 個人のものでない限り、抽象的ではなく現実的なもの、あなたに 深く根づき、内臓にまで染み渡り、血液や骨の髄のようなものにならない限り、不毛で 無益だ。
それは 賢者の宗教ではなく、哲学者の宗教だ。



ここで、第三のタイプが登場する。

これが本物で、他の二つは 宗教の捏造、偽りに満ちた、値打ちのない、極めて安直な代物だ。
というのも、それらは あなたに 挑戦しないからだ。

第三のものは、極めて困難で厳しい。
それは大いなる挑戦だ。
第三の、本物の宗教は、神に対し、個々人が 独自に呼びかけなくてはならない と言う。
そこで、あなたの生に 混乱が生じる。
あなたは 神を挑発しなくてはならない、神が あなたを挑発するのを 許さなくてはならない、そして神と 折り合いをつけなくてはならない。
実際に、神と争い、神にぶつかり、神を愛し、憎み、友となり、敵とならなくてはならない。
神の体験を 生きたものにしなくてはならない。


幼い子供の話を 聞いたことがある。
あなたたちにも、この幼子のようになってほしい。
実に賢い子だった。

幼い少年が、日曜日の学校の遠足で迷子になった。
その子の母親が、狂ったように捜し始めた。

まもなく母親は、「ステラ、 ステラ ! 」と 大声で叫ぶ、子供の声を耳にした。

すぐに母親は 子供を見つけ、駆け寄って腕に抱きしめた。
「どうして ママって呼ばないで、ステラ って、ずっと名前で呼んでたの ?」と母親が聞いた。
今まで ファースト.ネームで 呼ばれたことがなかったからだ。
「うん、ママって呼んでもだめでしょ。 ママが いっぱいいるんだもの」ーー そこは母親たちで いっぱいだった。


「ママ」と呼んでも、極めて多くのママがいる。
そこは 母親たちで いっぱいだ。
あなたは自分流に、ファースト.ネームで 呼ばねばならない。

神も、個人的に ファースト.ネームで呼ばないと、生の中に実在するようにはならない。
「パパ」と呼び続けるのも可能だが、どの父親のことを 言っているのだろうか。
エスは神を「父」と 呼んだ。
しかし、それは 個人の呼びかけだった。
あなたの場合は、まったく個人的ではない。
キリスト教のものではあっても、個人のものではない。

エスが神を「父」と呼ぶのは意味がある。
あなたが「父」と呼ぶのは意味がない。
あなたには 触れ合いが、神との現実的な触れ合いがない。

生の体験だけが、信念でも 哲学でもなく 生の体験だけが、個人的な呼びかけを 可能にする。
体験したとき、あなたは 神と出会う。

神と出会わない限り、あなたは言葉で 自分を欺き続けるしかない ーー虚しい、空っぽの言葉で、中身のない 言葉で。



(03) 終わり・・・(04)へ 続く