saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第二章 失うものは何もない 第五の質問

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第五の質問

愛する和尚、

なぜあなたは、私たちに 宗教的な名前を下さるのですか。
愚かしく思えます。
アシュラムの外で、インド人に スワミと真面目に呼ばれることなど滅多にありませんが。



あなたは、そう呼ばれたい と 強く望んでいるに違いない。
私があなたを スワミと呼ぶのは、人からそう呼んでもらうためではない。
スワミとは 主人という意味だ。
人に 主人と呼んでもらいたがってはならない。

私が あなたを スワミと呼ぶのは、あなたが自分の 主人となるための道を 示そうとしているからに過ぎない。
人を あなたの奴隷にするためではなく、あなたが あなたの主人に なれるようにと 思ってのことに過ぎない。
己の主人、それがスワミだ。
だから、誰も あなたをスワミと呼ばなくても 私は何とも思わない。
いや、むしろ誰かが あなたを スワミと呼んだら 注意しなくてはならない。
危険だからだ。
あなたは自分を 聖人のように思い始めるかもしれない。
そういう愚かな考えを 持ってはならない。
私がここにいるのは、あなたを聖人君子か何かに 仕立て上げるためではない。

どうして宗教的な名前をくれるのか、愚かしく思える、と 尋ねているが、確かに そのとおりだ。
実を言うと、私の狙いは あなたをとても愚かで馬鹿げたものにし、他人も、あなたも、あなた自身を 笑えるようにすることにある。
それが私の策略だ。


スワミと呼ぶ理由は もう一つある。
宗教的な名前を与えるのは、私にとって 俗なものと神聖なものは 別々ではないからだ。
俗なものは神聖なもの、平凡なものは非凡なもの、自然なものは超自然なものだ。

神は この世から遠く離れたところにいるのではない。
神は この世の内にいる。
あらゆるものは そのままで神聖だ。
というのが 私の一貫した姿勢だ。
生に反対する、というのが 古い宗教家の考えだ。
古い考えの人は、この世の生を、この平凡な生を、凡庸なもの、穢れたもの、幻想と呼んで蔑む。

私は生を 深く愛しているから、蔑むことはできない。
私は、生への思いを高めるために ここにいる。

人よりも抜きん出るように してあげたくて、宗教的な名前を与えているのではない。
「私の方が神聖だ」とか、そういう たぐいの思いを抱かないこと。
それは 馬鹿げている。

あなたたちには オレンジ色の服を着させているが、その服は、何世紀もの間 ずっと、ある特別な目的のために 身につけられてきた ーー 平凡な生と 宗教的な生を区別するために。
私は、このような区別を すべて失くしたい と思っている。
あなたにオレンジの ローブを着せ、しかも、生から離さないようにしているのは そのためだ。

あなたは、普通の生を 生き、座ったり、働いたり、歩いたりするだろう。
市場や店や 工場にいるだろう。
労働者であり、医者であり、技術者であったりするだろう。

私は、あなたを 特別な存在にしようとしているのではない。
まさに、その特別な存在になりたい という欲望が、非宗教的だからだ。
そうした思いを 粉々に打ち砕くために、そのローブを着させているのだ。
それで、伝統的なサニヤシンたちは 私に 強く反対する。

私は彼らの 優越性を ことごとく粉砕する。
遅かれ早かれ、区別はなくなるだろう。
私の スワミたちが、急速に成長している。
古いスワミたちは、新しいスワミたちの ジャングルの中に すっかり埋没してしまうだろう。
人々には、誰が誰だか わからなくなるだろう。
それが、あなたをスワミと呼ぶ 隠された理由だ。

私は、宗教的な生を普通の生にしたい。
なぜなら、普通の生しか存在しないからだ。
他の生は どれも皆、エゴトリップでしかない。
この生は とてもすばらしい、これに優越する別の生を作る 必要はない。

生へ 深く入っていきなさい、深く。
そうすれば、幽遠な深みが現れるだろう。
この普通の生には、計り知れない可能性がある。
宗教的な生と言われるものは、宗教的ではない。
その意味において、あなたには宗教的に なってほしくない。
私は、聖と俗、神聖なものと神聖でないものの垣根を、すべて失くしたいと思っている。
それは偉大な革命だ。
あなたは、何が起こっているのか 気づきもしないだろうが。

伝統主義者が反対するとしても、それは理解できる。
私が彼らの「私の方が神聖だ」という態度を 打ち砕いているからだ。

オレンジ色を 特別に選んだ理由は そこにある。
それはサニヤシンの伝統的な衣服として着用されてきた。
だが、私が選んだのは服だけで、他には何も、伝統的な規律も何もない。

あるのは 気づき、生への愛、生の尊重、生への崇敬だけだ。
あなたに オレンジ色のローブを着せているが、伝統的な区別が 壊されたとわかったときには、その服から開放するつもりだ。
そうなったら もう必要はない。
だが、それには時間がかかる、何世紀にも亘って その区別が作られてきたからだ。

あなたには、何が起こっているのか想像できない。
オレンジのローブを着たサニヤシンが、ガールフレンドと通りを歩いていたら何が起こるのか、あなたには想像できない。
インドでは、一万年もの間、そんなことは 起こらなかった。
信じられない出来事だ。
それでも、スワミと 呼んでもらいたいのかね ?
殺されないだけでも充分だろう。
あなたは インドの伝統を 破壊しているんだよ。
サニヤシンとは 女性を けっして見ない人のことだった。
触れるのは 問題外、手を握ることすら できなかった。
それは、充分 地獄行きに値する行為だった。

私はあなたを、まったく新しいサニヤシンにした。
ネオ・サニヤス だ。
私のしていることは皆、ある手法に基づいている ーー あなたが 気づいているかどうかは 知らないが。
伝統的な態度を、残らず打ち壊したい ということだ。
生は 宗教的であるべきだが、宗教は いかなる生も持ってはならない。
市場と僧院の間に 垣根があってはならない。
僧院は 市場の中にあるべきだ。
神聖なものは、日常の 生の 一部となるべきだ。


睦州に 尋ねる者がいた、「何をするのですか。 どういう修行をするのですか」。
睦州は答えた、「平凡に生きる、それが私の修行だ。 腹がへったら飯を食い、眠くなったら 寝る」。

そう、まさに これこそ生のあり方だ。

質問者は戸惑って こう言った、「特別なものは 何もないようですが」。
睦州は答えた、「そこが大事なところ、特別なものは 何もない」。

特別なものを望むのは、すべて自我の働きだ。

質問者はまだ戸惑っていた、「しかし、誰でもやっていますよ。 お腹がすいたら食べ、眠くなったら寝る なんてことは」。
睦州は 笑った。
「そうではない。 食事のとき、人は 多くのことを為している。 考える、夢を見る、想像する、思い出す。 食べることだけではない。
私の場合は、ただ食べる。 食べることがあるだけで 他には何もない。
純粋なのだ。 眠るとき、人は多くのことを為している。 夢を見る、闘う、悪夢を見る。
私の場合は、ただ寝るだけ、他には何もない。 寝ているときには眠りしかない、睦州すらいない。
食事のときには食べることしかない、睦州すらいない。
歩いているときには歩きしかない、睦州はいない。 歩きだけ、歩きしかない」。


あなたにも そうなってほしい。
平凡に、だが平凡な生に 気づきという質を 持ちこむように。
平凡な生に 神を引き入れるように、神を招待するように。

眠る、食べる、愛する、祈る、瞑想する ーー 特別なことをしていると思わずに。
そうすれば、あなたは 特別な人になるだろう。
平凡な生を 喜んで生きようとする人は 特別だ。

特別でありたい、並外れた存在になりたい という望みは、全くもって平凡なものだからだ…。

くつろいで、平凡でいようとするのは、本当に 特別なことだ。



第五の質問、終わり・・・第六の質問へ 続く