saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第二章 失うものは何もない 第四の質問

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愛する 和尚、

あなたは、何びとも 他人の生に対して指図してはならない、とおっしゃいました。
そのことと、あなたの求めに応じたり、あなたに 明け渡したりすることとの辻褄を、どう合わせればよいのでしょうか。



まずもって、私は誰でもない。

さて、もう一度その質問を 聞いてみよう。
「あなたは、何びとも他人の生に対して指図してはならない、とおっしゃいました」。

私が 明け渡せと 言ったからといって、私に明け渡してはならない。
だが、あなたが明け渡したいと 思うのであれば、私には どうしようもない。
それは、あなたの感情だ。
もし、私があなたに 明け渡すよう 命じているのであれば、言うことを聞いてはならない。
だが、あなたのハートが命じているのならどうする ?
求めに応じるよう私が言うのであれば、一切 従ってはならない。
だが、あなたが「この男の求めに応じろ」と 自分で思っているのであれば、そうするがいい。

そのうえ、ここには誰もいない。
私を深く覗き込んでみれば、誰もいないのがわかるだろう。
家は 空っぽ、望みさえすればその空間は すべてあなたのもの。
私は空間にすぎない。
あなたが見ている 椅子に座っている男は、ずっと前に死んだのだ。
あなたに命令するような実体は 存在しない。


昨夜、女性の求道者が、「私も 他のサニヤシンのように 明け渡したいのですが、できません。
自由を手放せないからです。
私は とても小さいときから色々と躾けられ、がんじがらめにされてきました。
今は、別の檻に入れられるのが恐いのです」と 言った。
私は「恐がらなくてもいい。 あなたに自由を、絶対的な自由をあげよう」と言った。

サニヤスとは自由、正しく理解するなら、絶対的な自由のことだ。

その女性は そこのところを理解した。
私がこう言ったからだ、
「今あなたは、別の檻に入りはしないかと恐れている。 だが、自我 自体が檻に、最大の檻になり得ることを知っているだろうか。
あなたは色んなことに関わって生きてきた。
そして、それが皆、檻となってしまうことに 気がついた。
けれども、自我 自体が檻になるのだ。
人を閉じ込めることのできない人間、誰でもない人間に明け渡せば、自我が檻になる危険性そのものもなくなる。
明け渡す と言っても、本当のところ 私に明け渡すのではない。
私はここにいないからだ。
それに私は、明け渡しを 少しも楽しみにしてはいない。
あなたが 明け渡そうと明け渡すまいと、私には同じことだ。
実を言えば、明け渡すのは あなた自身に対してであって、私にではない。
あなたが 自分の自我を明け渡す というだけで、私は方便、口実にすぎない。
川や空や 星に明け渡すというのは、なかなかできるものではない。
ちょっと馬鹿げて見える。
だから私は、馬鹿げていると感じなくても済むように、ここにいる振りをしているのだ。
あなたの自我は ここに置ける。
受け取る者も 喜ぶ者もいないが、それは役に立つ 」

ブッダは そうしたものを方便 ーー ウパヤと呼んだ。
それはウパヤ、触れるべき足が 見つからないと自我を降ろそうとしない人たちのための方便だ。
私は あなたたちに足を提供する、だが 私は いない。



第四の質問、終わり・・・第五の質問へ 続く