saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「死の アート」第三章 綱渡り (04)

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( …神と出会わない限り、あなたは言葉で 自分を欺き続けるしかない ーー 虚しい、空っぽの言葉で、中身のない 言葉で )


とても有名な スーフィーの神秘家がいた。
名を シャキクと言った。
心の底から、途方もなく 神を信頼し、その信頼だけで生きていた。

エスは、弟子たちに「野の百合を見よ。 案ずることなく、美しく 生き生きと咲いている。
ソロモンの栄華といえども、それには及ばない 」と言った。
シャキクは、野の百合の 生を生きた。
そのように生きた人はいるが、そのように生きた神秘家となると 非常に稀だ。
その信頼には限りがなく、絶対的で、何もする必要がないほどだった。
神が 代わりにやってくれる。
実のところ、あなたが 何か しているときでも、しているのは神で、あなたが自分でしている と思っているだけなのだ。

ある日、一人の男がやって来て、シャキクの 怠けぶりを非難し、自分のところで働かないか と言った。
そして、「お前が働いた分だけ、金を払おう」と 言い添えた。

シャキクは答えた、「五つの 問題がなければ、あなたの申し出を受けましょう。
一つ、あなたは破産するかもしれない。 二つ、泥棒があなたの財産を奪うかもしれない。 三つ、私に何をくれるにしても、ひどく物惜しみながらだろう。 四つ、私の仕事のあらを見つけたら、おそらく私を首にするだろう。 五つ、もしもあなたが死んだら、私は食い扶持を失うだろう」

シャキクは結論を言った、「ところが、私にはそういう欠陥のないマスターがいるのです」。


これが信頼というものだ。
生を信頼すれば、失うものはない。
だが、その信頼は 空理空論からは生まれない。
教育、説教、学習、思索からは生まれない。
それは、あらゆる対立、あらゆる矛盾、あらゆる逆説を含み持つ生を体験して、はじめて生まれる。
内にある、あらゆる逆説のバランスがとれた地点にやって来たとき、信頼は生まれる。
信頼はバランスの香り、バランスの芳香だ。

本当に信頼したかったら、あらゆる信念を去ることだ。
信念は無益だ。
信ずる心は 愚かしいが、信頼する心には 清らかな知性がある。
信ずる心は凡庸だが、信頼する心は完全になっていく。
信頼は完全をもたらす。

信念と信頼の違いは 単純だ。
辞書に出ている意味のことを話しているのではない。
辞書では、信念とは信頼、信頼とは信仰、信仰とは信念というふうになっているだろう。
私が話しているのは 実存的な意味であって、実存的見地からすれば、信念は 借り物で、信頼は あなたのものだ。
あなたが信奉している信念の真下には、疑いが 隠れている。
信頼には、疑いの元になるものがない。
信頼には、疑いが まったくない ということだ。
信念を持つと、あなたの内部に 分裂が生じる。
マインドの一部は信じるが、一部は否定する。
信頼は、あなたの 実存の全一性、あなたの全体性だ。

しかし、自分で神を体験しないで、信頼することができるだろうか。
エスが体験した神であれ、私が体験した神であれ、仏陀のそれであれ、役には立たない。
それは、あなたの 体験でなくてはならない。

信念を抱いていると、幾度となく それと合致しない体験をする。
だが、マインドには、そういう体験に 目をつぶり無視する傾向がある。
とても邪魔になるからだ。
それは信念を 打ち砕く。
けれどもあなたは 信念にしがみついていたい。
そうやってあなたは、だんだん生を 見なくなる。
信念は 目隠しになる。

信頼は 目を開かせる。
信頼には 失うものがない。
信頼とは、現実のものは すべて真実である、ということだ ーー「私は、欲望や願望を脇に置ける。 真実にとって、何の意味もなさないからだ。
それらは、マインドを真実から逸すものでしかない」。

あなたが ある信念を持っていて、その信念が、「ありえないことだ」と言うような体験、
あるいは 信念を捨てなくてはならないような体験をしたとする。
あなたは どちらを選ぶだろうか、信念だろうか、それとも体験だろうか。
マインドは 信念を選び、体験のことは 忘れようとする。
神が何度も ドアを叩いてくれたのに、そうやってあなたは、出会いのチャンスを 逃してきた。

覚えておきなさい、真理を求めているのは あなただけではない、真理の方も あなたを求めているのだ。
その手は、あなたの すぐ近くまで伸びてきた、もう少しで あなたに届くところだった。
ところがあなたは、見向きもしなかった。
それはあなたの 信念にそぐわなかった。
あなたは 信念を 選んだ。



実に見事な、ユダヤのジョークを聞いたことがある。

ある晩、パトリック・オ・ルークの寝室へ、血を吸いにやって来た 吸血鬼の話だ。
オ・ルークは、母親がしてくれた話を 思い出し、吸血鬼の顔面へ 十字架を闇雲に振りかざした。
吸血鬼は しばらく じっとしていたが、気の毒そうに頭を振り、舌打ちすると、純粋なイディッシュ語で 優しくこう言った、
「Oy vey,bubula ! お門違いの吸血鬼でしたね !」

さて、吸血鬼がキリスト教徒なら、グッドだ !
十字架を かざせる。
だが、ユダヤ教徒なら どうする ?
そのときは、「 Oy vey,bubula ! お門違いの吸血鬼でしたね ! 」だ。

抱いている信念が 生にそぐわなかったら、あなたはどうする ?
十字架を かざし続けることもできる ーー だが、吸血鬼はユダヤ人だ。
十字架なぞ、見向きもしない。
だったら、どうする !

生は 極めて大きいが、信念は極めて小さい。
生は 無限だが、信念は あまりにもちっぽけだ。
生は信念に けっして合致しない、生を信念に無理に 合わせようとするのは、不可能なことを叶えようとすることだ。
絶対に 合致しない。
物事の本性からして、それは あり得ない。
あらゆる信念を 落としなさい。
そして、体験するには どうしたらいいか 学び始めなさい。


さあ、この話に入ろう。

昔、ハシディズムの人々が、仲良く座っていた
パイプを手にしたラビのイスラエルが、仲間に加わった
人々は、とても親しみやすいイスラエルに質問した
「先生、神に仕えるにはどうしたら良いか教えてください」


ハシディズムについて 二つ 三つ。
まず、hasid という言葉は、「 敬虔な、純粋な 」という意味の、ヘブライ語に由来しているということ。
その語源は、恩寵を意味する名詞 hased だ。

hasidという言葉は 非常に美しい。
ハシディズムの あらゆる考えの基礎には、恩寵がある。
生はすでに あるのだから、何かを するのではなく、ただ静かに、受動的に、意識して、受け取るということだ。
神は、あなたの努力に 応えようとして やって来るのではない、恩寵を 与えに来るのだ。
だから、ハシディズムに、厳格な 規律はない。
ハシディズムは、生を 信奉する、喜びを 信奉する。
ハシディズムは、世にある宗教の中でも、生を肯定するものの 一つ として挙げられる。
放棄は ない、あなたは何も 放棄しない。
というよりも、あなたは 祝わなくてはならない。
ハシディズムの創始者、バアル・シェムは、「私は 新たな道を示しに来た。
断食でも、懺悔でもない、放蕩でもない。 神の喜びだ 」と 述べたと言われている。

ハシディズムの人たちは、生を愛し、生を体験しようとする。他でもない その体験が、バランスをもたらす。そして いつの日か、その状態にあるとき、真にバランスが とれているとき、あっちにもこっちにも 傾いていないとき、ちょうど真ん中にいるとき、あなたは 超越する。
真ん中は 超越、超えるときに開ける扉だ。

もし本当に 存在を知りたい というのであれば・・・それは 生でも死でもない。
生は 一方の極、死はもう一方の 極だ。
存在は、生も死も ないところ、生まれることも 死ぬこともないところ、まさしく その中心に ある。
バランス、均衡が取れているとき、恩恵は 降り注ぐ。


私は、あなたたち全員が ハシディズムの人になり、恩寵を受け取ってほしいと思う。
この科学と バランスの術(アート)を 学んでほしいと思う。



(04)終わり・・・(05)へ 続く