saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「死の アート」第三章 綱渡り (05)

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( …私は、あなたたち全員が ハシディズムの人になり、恩寵を受け取ってほしいと思う。
この科学と バランスの術(アート)を 学んでほしいと思う )

マインドは、極めて 安易に極端に走る。
耽溺する者がいる ーー 肉欲、性、食べ物、衣服、家、あれやこれやに。
耽溺する者、彼らは 生に傾き過ぎて転げ落ちる。
それから、人々が存在の綱から耽溺に転落するのを、耽溺の どん底に転落するのを見て怖くなる者がいる。
その人たちは、もう 一方の極に傾きだす。
世を捨て ヒマラヤに逃れる。
妻、子供、家、世間、市場から逃れ、僧院に身を隠す。
彼らは 別の極を選んだ。
耽溺は 生という極であり、放棄は 死という極だ。

ニーチェは、ヒンドゥー教を 死の宗教だと評したが、ある程度 正しい。
仏陀を自殺的だとも言ったが、ある程度 正しい。
その正しさとは 人は 一方の極から もう一方の極へ動くということだ。

どの極も選ばず、ひたすら中心に留まろうとする。
双方を手にしつつも 双方を超える。
どちらにも 同一化せず、どちらにも捕らわれず、どちらにも固着しない。
ひたすら自由でいて 両方を楽しむ、というのが ハシディズムの一貫した態度だ。
生が やって来れば それを楽しみ、死が やって来れば それを楽しむ。
神の恩寵として 愛や生が与えられるのなら、それも良し。
死が与えられるのなら、それも良し ーー 神の 贈り物なのだから。

バアル・シェムが、「ハシディズムは祝祭の宗教だ。 全ユダヤ文化の結晶、全ユダヤ人の芳香だ。 この世で最も美しい出来事の 一つだ 」と 言ったのは正しい。


昔、ハシディズムの人々が、一緒に仲良く座っていた


ハシディズムは、共同の生を教える。
それは、ともに生きることを強調する。
ハシディズムは言う、人は 島ではない、自我ではない、自我であってはならない、島であってはならない、と。
人は、共同の生を生きるべきだ。

私たちはここで、ハシディズム的な 共同体を育んでいる。
共同体に住むというのは、愛の中で生きること、皆が関わり合い、人の世話をすることだ。

極めて自己中心的な 宗教がたくさんある。
自分のことだけ考えて、共同体のことなど少しも考えない。
どうしたら「私は」開放されるか、どうしたら「私は」自由になるか、どうしたら「私は」モクシャ(解脱) に達するか ーー「私の」モクシャ、「私の」自由、「私の」開放、「私の」救済。
だが、「私の」と、「自我」を すべての事柄の前につける。
こうした宗教は 自我を必死に落とそうとするが、その努力は すべて自我に基づいている。
ハシディズムは、自我を落としたかったら、一番良いのは、共同体の中で 人々と一緒に 生きること、人々と 関わって生きること、人々の喜び、悲しみ、人々の生、 死と ともに生きることだ と言う。
人との関わりを持ち、交われば、自ずと自我は消えるだろう。
自我が なくなったとき、人は 自由になる。
自我 の自由はない、自我から の 自由しかない。

ハシディズムは、共同の生を 方便として用いる。
ハシディズムの人々は、小さな共同体に生きてきた。
祝祭に満ちた、踊りのある、生の ささやかなことを楽しむ すばらしい共同体を造ってきた。
彼らは、食べるとか 飲むとか、ささやかなことを神聖にする。
生の ありきたりなものが、ありきたりでなくなる。
神聖な恩寵で満たされる。


昔、ハシディズムの人々が、一緒に仲良く座っていた

ここが他と違うところだ。
ジャイナ教の僧侶たちが 座っているところを見たとしても、少しも親密さは見られないだろう。
それは あり得ない、事に当たる 姿勢が違うのだから。
ジャイナ教の僧侶は、それぞれが 島だ。
ハシディズムの人々は 島ではない。
彼らは 大陸であり、非常に親密だ。

私が ここで育てたいと思っているのは、ジャイナ教の僧侶たちのようなものではなく、ハシディズムのような共同体だ ーー このことを 覚えておきなさい。
一人でいる人間、自分に閉じこもっている人間は醜い。
生は 愛の中に、流れの中に、やり取りや 分かち合いの中にある。

ジャイナ教の僧院や寺院に行って、そこに座っている僧侶たちを じっと見ていなさい。
皆が皆、いかに自分に閉じこもっているか わかるだろう。
関わり合いが まったくない。
僧侶たちは、いかに関わらずにいられるか、そのためにのみ努力する。
いかに あらゆる関係を絶つか、そのためにのみ努力する。
だが、共同体や 生との関係を 絶てば絶つほど、人は死ぬ。
まだ生きているジャイナ教の僧侶を捜すのは 難しい。
私は、ジャイナ教の家に生まれ、ほんの子供の頃から 彼らを見ているので、良く知っている。
私は本当に驚いた。
どんな災難が この人たちに降りかかったのだろう ?
何がうまく いかなかったのだろう ?

彼らは死んでいる、死体だ。
先入観を抱かず、偉大な聖者たちだとは思わず、ただ その人たちのところに近づき、何の偏見もなく観察すれば、あなたはとても 困惑し、混乱するだろう。
どんな病、どんな病気に かかっているのだろう ?
彼らは神経症だ。
自分自身への関心が、神経症を 引き起こしたのだ。

ジャイナ教の僧侶にとって、共同体は 完全に意味を失った。
だが、意味は 共同体の中にしかない。
覚えておきなさい。
あなたが 誰かを愛する ーー それは その人に 愛を与えているというだけではない、与えることによって あなたは成長する。
あなたと相手の間に 愛が流れ出すと、あなたたちは 二人とも恩恵を受ける。
そして、その愛の交換の中で、あなたの可能性が 現実のものとなっていく。
それが、自己実現の仕方だ。

愛するほどに、あなたの存在は大きくなる。
愛が 小さくなれば、あなたの存在も小さくなる。
あなたは、つねに愛に比例して存在している。
あなたの 愛の度合いが、あなたの 存在の 度合いなのだ。



昔、ハシディズムの人々が、一緒に仲良く座っていた
パイプを手にした・・・


手にしているのは神聖なパイプだ、想像できるかね ?


パイプを手にしたラビのイスラエルが、仲間に加わった


ありきたりの生を 聖化しなければならない。
神聖なものにしなければならない ーー パイプといえども。
心から 祈りを込めて タバコを吸うこともできるし、祈りなどまったく込めずに吸うこともできる。
何をするかの 問題ではない、寺院や モスクへ行っても、まったく心を込めずに祈ることもある。
あなた次第だ。
あなたが 祈りに込める 質による。
食べる、タバコを吸う、飲む、こうした ささやかで平凡なことのすべてに 深い感謝の念を込めて 行えば、それらは 祈りになる。



(05)終わり・・・(06)へ 続く