saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第二章 失うものは何もない 第七の質問

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愛する 和尚、

瞑想を 成長のアートではなく、死のアートと好んで呼ばれるのはどうしてでしょうか。



成長のアート と呼べば、あなたの自我が それをとても気に入ってしまうのが わかっているからだ。

死のアートは、一種の衝撃だ。


小話を 一つ。

ある日のこと、ムラ・ナスルディンは、街にある井戸の周りに 人だかりができているのを目にした。
頭に巨大なターバンを巻いた ムスリムの僧侶が、井戸に落ち、助けを求めていたのだ。
人々は 前かがみになって、「手をよこしなさい。 先生、手をよこしなさい !」と 叫んでいた。
だが、僧侶は 差し出された救いの手には見向きもせず、水と格闘しながら助けを求めて叫んでいた。

いよいよ、ムラ・ナスルディンが進み出てきた、「ここは私に任せなさい !」。
ムラは 僧侶の方に手を差し出し、「私の手を取りなさい !」と叫んだ。
僧侶は ムラの手を掴んだ。
そして井戸から引き上げられた。

人々は とても驚いて、ムラに、どうやったのか種明かしをしてくれ と言った。
「簡単なことさ。
私は このけちん坊が、誰にも何もやらないことを知っていたんだ。
自分の手でさえも ね。
だから、『手を よこせ』と言う代わりに『手を 取れ』と言ったんだ。
案の定、取りやがった 」。


私はあなたが 成長のアートと 呼んでほしがっているのを知っている。
そう呼べば、あなたの自我は すこぶる心地よく思うだろう ーー 自我は常にそうしたがる。
「それは成長の問題だ。だから、ここに とどまって成長しよう」。

私は、意図的に 死のアートと 呼んでいる。
瞑想が死のアートなら、あなたの自我には ショックだろう。

また、死のアートと呼ぶ方が、より正しい という面もある。
自我が育たず、瞑想の中で死んでいくことになるからだ。
二つの可能性しかあり得ない ーー 自我が成長し続け、どんどん強くなっていくか、あるいは 消えていくか。
自我が成長し続け 強くなっていけば、あなたは いっそう泥沼にはまる。
さらなる足かせをはめられ、どんどん自我の束縛の中に落ちていく。

あなたは窒息するだろう、あなたの生全体が 地獄となるだろう。

自我の成長は 癌の増殖だ。
癌のように あなたを殺す。

瞑想は、自我の成長ではなく 自我の死だ。



第七の質問、終わり・・・第八の質問 (01) へ 続く